ご判様山門法要(4月29日)
年中行事
創建来700年の歴史を有す妙光寺では、古くから続く「ご判様」、「七面様祭礼」ほか、さまざまな年中行事を続けています。
全ての年中行事は檀信徒問わず、どなたでもご参加いただけます。



8月最終土曜日。2019年で30回目を迎えるお盆最後の行事。安穏廟を含めた境内全ての墓地を読経で巡り、300基の川灯籠のあかりで霊山に精霊を送ります。院庭では命のつながりを語り、境内には次世代につなぐ賑やかな子供たちの声が響きます



大晦日の夜、先着順に除夜の鐘を撞くことができます。お焚き上げの火、コンニャクや甘酒で暖を取りながら順番を待つ境内は賑やかです。
定例行事

客殿での「ASYL ~アジール」の上演
催 事
不定期に諸堂、院庭、境内を開放して様々な催しが企画されます
檀信徒問わずどなたでもご参加いただけます

大広間の障子17枚に画家の渡辺隆次さんのきのこの絵が映し出され、西松布永さんの三味線と江戸唄、寺田みさこさんのコンテンポラリーダンスが融合して、幻想的な一夜になった。
普段は非公開の客殿屋根裏を「水と土の芸術祭」(新潟市主催)の会場にと、美術評論家の大倉宏さんから相談を受けて提供。作家の佐々木愛さんが砂糖を使った作品を現場で制作。6か月間の有料展示を行い3000名の来場者があった。作品は解体のうえ移設した。
天野さんの遺作となった日本庭園の大判写真を客殿で展示

天野さんの写真展「日本庭園の美」の最終日に、天野さんが妙光寺で出会ったピアニスト早川揺理さんのご縁で、世界的イタリア人テノール歌手二コラ・ロッシ・ジョルダーノ氏らのコンサートで天野さんを偲んだ。
インド政府ICCR派遣によるマハトマ・ガンディー生誕150周年記念の公演ツアー。出演はVision Odishaの舞踊団14名。インドの叙事詩「マハーバーラタ」によるストーリー豊かな舞踏は、勇壮なリズムとコミカルな激しい動きで観客を魅了した。

生誕115年を迎えた童謡詩人金子みすゞの遺した珠玉の詩に、歌手〝ちひろ〟が曲をつけて歌った。元気で楽しくて明るい素敵な歌声が本堂に響き、代表作の『私と小鳥と鈴と』では観客みんなが手話で一緒に歌った。
自然の草花やきのこの絵、甲州武田神社の天井画で知られる画家。
独特の技法で描かれた作品は、客殿の雰囲気に溶け込んで、600人の来場者を楽しませた。

外務省交流支援でまき親子劇場が主宰。池の水を汲み上げて入れた大型簡易水槽が舞台となり、水中から現れて動き回る人形たちに子供は大喜び。広い境内ならではの楽しい時間だった。
ロンドン大英博物館で1962年に発見された説教浄瑠璃「弘知法印御伝記」を、新潟人だけで「越後猿八座」を結成し300年ぶりに復活公演。三味線の越後角大夫さんとのご縁もあり、まき親子劇場主宰で100名が来場。

長野オリンピック・パラリンピックの開会式で『上を向いて歩こう』の熱唱や、映画『ガイヤシンフォニー』の楽曲起用、自動車のCM曲などで知られるアメリカ人歌手。澄んだ歌声が本堂に響き、美しく自愛に満ち、聴衆は幸せな気持ちにひたった。
本堂設置の大スクリーンに投影した写真家天野尚さんの映像と、小原さん他のソプラノが見事に融合した映像コンサート。前半で小川英爾住職と天野さん2人のトークも会場を沸かせた。住職の発案で始まったこの催しは、やがて新潟市、佐渡市で開催されるなど、天野さんの写真展と共に人気企画となった。天野さんは妙光寺での再演を希望しつつ、2015年8月4日62才でご逝去された。その稀有な才能を惜しむ声は多い。
原爆投下の直後の長崎を米軍カメラマン、ジョー・オダネル氏が撮影した写真の展示を開催。期間中1500人の来場者があった。

私の脳裏に焼きついた1枚の写真である。長崎に原爆が投下された直後に撮られたものだ。3年前、角田山妙光寺にて写真展が開催されたとき、初めて目にした。
1945年8月、当時のアメリカ軍が原爆の破壊力を記録するためジョー・オダネルを長崎に派遣 したことに始まる。そのとき、惨状を目の当たりにした彼が軍の規律に反して密やかに撮ったという50数点のモノクロ写真が展示されていた。その中の1枚が題名の写真である。その写真の前では、訪れた多くの人たちが立ち止まり、私も釘づけになった1人である。
その少年は赤ん坊をひもで背負っていた。しかし、赤ん坊の首は大きく傾き、すでにこと切れているようである。地面には竹のような棒が数本、仕切りのように置かれている。まだ幼さの残る少年が、その前に裸足で立っている。両手両足はしっかり揃えられ、真っすぐ前を見つめている。唇を引き締め、その姿からは厳かな雰囲気が見る者に伝わってくる。家族を皆原爆で失ったのだろうか。幼子を哀れんだ兄は、せめてその子だけでも葬ろうと焼き場を探し当て、たどり着いたのかと想像してみる。
後にジョー・オダネルは語っている。「アメリカではこのような少年を目にすることはない。毅然とした少年の姿は驚きだ。赤ん坊を焼き場にそっと降ろした彼は、黙々と丘を登って行った。後を追い、慰めたいと思ったができなかった」と。帰国後は、国の監視の目を恐れ、写真類はトランクの奥に50年間もしまわれたままだったそうだ。この写真は後に、ローマ法王が「戦争の結果」とするメッセージを添えたカードにして、核軍縮シンポジュウムの参加者に配ったことを知った。写真展を見終えた夫と私は、参道を歩きながらも会話は少なかった。そんな中「あの少年は、その後生き延びることができたかしら」という言葉が、私の口からついて出た。
その写真の残像は、いつしか幼少のころに見た光景につながっていった。終戦の年、私の一家は戦火を避け名古屋から父の実家のある新潟の村上へ疎開することになった。出発地となる名古屋駅の混雑ぶりはひどかったというが、当時4歳の私には、おぼろげな記憶だけである。ただ、そこへ向かう道すがらの情景だけは、今も思いだすことが出来る。道の両脇には、私と年恰好が似ている子どもたちが大勢いた。大抵の子どもは力なさそうに地面に横たわり、中には目をつむっている子もいたと記憶している。座っている子は、道行く人々に向かって必死に手を差し出している。私の手を引いていた母が「お腹空いてるんだね。上げられる物なにもない」とつぶやいた。私が次のような言葉で疑問を投げかけたと思う。「ねえ、どうしてあの子たちここにいるの」。その答えは私に怯えのような記憶を残した。「お父さんやお母さん、みんな戦争でいなくなったんだね」。
もう70年も前の忘れえぬ出来事だ。だけど段々そのシーンの映像が薄茶色にぼやけて遠い日になりつつあった。この日の写真展が一挙に、幼少のあの時に見た子供たちの姿と重なった。過酷で哀しい運命に遭遇した子どもたちはどれほどいたのだろう。私たちは妙光寺の参道を歩き続け、それぞれの思いに浸っていた。背後に控える角田山はうっそうと秋の気配が色濃くなり、寺の境内にせまるかのようだ。