行事・催事

300年以来伝わる『ご判様』日蓮聖人のご納判を稚児行列のお練りでお運びし、御開張したのが始まりです。

ご判様山門法要(4月29日)

年中行事

すべての行事がどなたでも参加いただけます

 創建来700年の歴史を有す妙光寺では、古くから続く「ご判様」、「七面様祭礼」ほか、さまざまな年中行事を続けています。
 全ての年中行事は檀信徒問わず、どなたでもご参加いただけます。

春
年頭会
年頭会

1月1、2日お正月は家族そろって1年の安泰を祈り住職と歓談。おせち料理にお茶席もあります

厄払い
厄払い

2月節分のころ、厄払や祈願の祈祷会

春秋季彼岸会
春秋季彼岸会

お彼岸中日は墓前法要、本堂法要、お説教と心静かにお参りの1日

ご判様
ご判様

毎年4月29日に江戸時代から続く伝統の日蓮聖人ご妙判を奉迎しての大法要。
新緑の境内を雅楽を先頭に稚児行列が練り歩きます

夏
盆参(墓参・施餓鬼会・新盆法要)
盆参(墓参・施餓鬼会・新盆法要)

8月1日、早朝からお盆のお墓詣り。
施餓鬼 法要、新盆法要も行われます

七面様祭礼
七面様祭礼

8月19日、日蓮聖人による七面大明神最初ご教化の霊地岩屋での法要は、霊気が充満します

万灯のあかり-妙光寺の送り-
万灯のあかり-妙光寺の送り盆-(フェスティバル安穏から2009年に改称)

8月最終土曜日。2019年で30回目を迎えるお盆最後の行事。安穏廟を含めた境内全ての墓地を読経で巡り、300基の川灯籠のあかりで霊山に精霊を送ります。院庭では命のつながりを語り、境内には次世代につなぐ賑やかな子供たちの声が響きます

秋
お会式(戒名授与式)
お会式(戒名授与式)

日蓮聖人のご命日法要に併せて、生前戒名の授与式を行います11月。七五三参りの家族連れが増えています。

七五三参り
七五三参り

発育増進のご祈祷を行います

冬
除夜
除 夜

大晦日の夜、先着順に除夜の鐘を撞くことができます。お焚き上げの火、コンニャクや甘酒で暖を取りながら順番を待つ境内は賑やかです。

定例行事

すべての行事がどなたでも参加いただけます
春秋一日研修
春秋一日研修

お経の初歩から仏事の作法まで、研修する丸1日です

月例信行会
月例信行会

毎月第1日曜日朝7:00本堂の法要に参加。簡単な清掃作業の後、お粥の朝食。あとはコーヒーを飲みながらの談笑です

「ASYL~アジール」にて。三味線と江戸唄、コンテンポラリーダンスが融合して、妙光寺が幻想的な空間となった

客殿での「ASYL ~アジール」の上演

催  事

 不定期に諸堂、院庭、境内を開放して様々な催しが企画されます
檀信徒問わずどなたでもご参加いただけます

主な開催例
「ASYL~アジール」上演
「ASYL~アジール」上演 |2013年10月19日・20日|

 大広間の障子17枚に画家の渡辺隆次さんのきのこの絵が映し出され、西松布永さんの三味線と江戸唄、寺田みさこさんのコンテンポラリーダンスが融合して、幻想的な一夜になった。

水と土の芸術祭 |2012年6月~12月|
水と土の芸術祭 |2012年6月~12月|

 普段は非公開の客殿屋根裏を「水と土の芸術祭」(新潟市主催)の会場にと、美術評論家の大倉宏さんから相談を受けて提供。作家の佐々木愛さんが砂糖を使った作品を現場で制作。6か月間の有料展示を行い3000名の来場者があった。作品は解体のうえ移設した。

斎藤文夫写真展『消えゆく故郷のお盆』
斎藤文夫写真展『消えゆく故郷のお盆』|2017年8月26日~9月2日|

 生涯をかけて故郷を撮り続けてきた斎藤さんの写真展。10万枚の中から、消えゆく懐かしいお盆の風景を院庭に展示

天野尚写真展『日本庭園の美』|2017年9月16日~10月1日|天野さんの遺作となった日本庭園の大判写真を客殿で展示
天野尚写真展『日本庭園の美』|2017年9月16日~10月1日|

 天野さんの遺作となった日本庭園の大判写真を客殿で展示

天野尚3回忌追悼コンサート『イタリアに吹く風』
天野尚3回忌追悼コンサート『イタリアに吹く風』|2017年10月1日|

 天野さんの写真展「日本庭園の美」の最終日に、天野さんが妙光寺で出会ったピアニスト早川揺理さんのご縁で、世界的イタリア人テノール歌手二コラ・ロッシ・ジョルダーノ氏らのコンサートで天野さんを偲んだ。

インド・オリッサ州民族舞踊公演
インド・オリッサ州民族舞踊公演|2019年5月8日|

 インド政府ICCR派遣によるマハトマ・ガンディー生誕150周年記念の公演ツアー。出演はVision Odishaの舞踊団14名。インドの叙事詩「マハーバーラタ」によるストーリー豊かな舞踏は、勇壮なリズムとコミカルな激しい動きで観客を魅了した。

金子みすゞの心をうたう~ちひろコンサート~
金子みすゞの心をうたう~ちひろコンサート~|2018年5月27日|

 生誕115年を迎えた童謡詩人金子みすゞの遺した珠玉の詩に、歌手〝ちひろ〟が曲をつけて歌った。元気で楽しくて明るい素敵な歌声が本堂に響き、代表作の『私と小鳥と鈴と』では観客みんなが手話で一緒に歌った。

『渡辺隆次展』|2013年10月10日~11月4日|自然の草花やきのこの絵、甲州武田神社の天井画で知られる画家。独特の技法で描かれた作品は、客殿の雰囲気に溶け込んで、600人の来場者を楽しませた。
『渡辺隆次展』|2013年10月10日~11月4日|

 自然の草花やきのこの絵、甲州武田神社の天井画で知られる画家。
独特の技法で描かれた作品は、客殿の雰囲気に溶け込んで、600人の来場者を楽しませた。

ベトナム水上人形劇
ベトナム水上人形劇 |2011年7月24日|

 外務省交流支援でまき親子劇場が主宰。池の水を汲み上げて入れた大型簡易水槽が舞台となり、水中から現れて動き回る人形たちに子供は大喜び。広い境内ならではの楽しい時間だった。

越後猿八座『弘知法印御伝記』|2010年1月24日|ロンドン大英博物館で1962年に発見された説教浄瑠璃「弘知法印御伝記」を、新潟人だけで「越後猿八座」を結成し300年ぶりに復活公演。三味線の越後角大夫さんとのご縁もあり、まき親子劇場主宰で100名が来場。
越後猿八座『弘知法印御伝記』|2010年1月24日|

 ロンドン大英博物館で1962年に発見された説教浄瑠璃「弘知法印御伝記」を、新潟人だけで「越後猿八座」を結成し300年ぶりに復活公演。三味線の越後角大夫さんとのご縁もあり、まき親子劇場主宰で100名が来場。

スーザン・オズボーン コンサート
スーザン・オズボーン コンサート |2009年4月25日|

 長野オリンピック・パラリンピックの開会式で『上を向いて歩こう』の熱唱や、映画『ガイヤシンフォニー』の楽曲起用、自動車のCM曲などで知られるアメリカ人歌手。澄んだ歌声が本堂に響き、美しく自愛に満ち、聴衆は幸せな気持ちにひたった。

天野尚ネイチャーワールドとソプラノの出会いコンサート |2009年5月16日|
天野尚ネイチャーワールドとソプラノの出会いコンサート |2009年5月16日|

 本堂設置の大スクリーンに投影した写真家天野尚さんの映像と、小原さん他のソプラノが見事に融合した映像コンサート。前半で小川英爾住職と天野さん2人のトークも会場を沸かせた。住職の発案で始まったこの催しは、やがて新潟市、佐渡市で開催されるなど、天野さんの写真展と共に人気企画となった。天野さんは妙光寺での再演を希望しつつ、2015年8月4日62才でご逝去された。その稀有な才能を惜しむ声は多い。

中野亘 “陶展”
中野亘 “陶展” |2012年から4年毎に開催|

 新潟市に生まれ滋賀県を拠点に活躍する陶芸家。期間中に“鼓童”の演奏や、“新井弘順師の声明の会”も催された。

ジョー・オダネル ナガサキ写真展 |2015年10月31日~11月8日|

 原爆投下の直後の長崎を米軍カメラマン、ジョー・オダネル氏が撮影した写真の展示を開催。期間中1500人の来場者があった。

※「ナガサキ写真展」開催後に宛てられた妙光寺檀徒の感想
「焼き場に立つ少年」 石田洋子 2018年3月 焼き場に立つ少年

 私の脳裏に焼きついた1枚の写真である。長崎に原爆が投下された直後に撮られたものだ。3年前、角田山妙光寺にて写真展が開催されたとき、初めて目にした。
 1945年8月、当時のアメリカ軍が原爆の破壊力を記録するためジョー・オダネルを長崎に派遣 したことに始まる。そのとき、惨状を目の当たりにした彼が軍の規律に反して密やかに撮ったという50数点のモノクロ写真が展示されていた。その中の1枚が題名の写真である。その写真の前では、訪れた多くの人たちが立ち止まり、私も釘づけになった1人である。
 その少年は赤ん坊をひもで背負っていた。しかし、赤ん坊の首は大きく傾き、すでにこと切れているようである。地面には竹のような棒が数本、仕切りのように置かれている。まだ幼さの残る少年が、その前に裸足で立っている。両手両足はしっかり揃えられ、真っすぐ前を見つめている。唇を引き締め、その姿からは厳かな雰囲気が見る者に伝わってくる。家族を皆原爆で失ったのだろうか。幼子を哀れんだ兄は、せめてその子だけでも葬ろうと焼き場を探し当て、たどり着いたのかと想像してみる。
 後にジョー・オダネルは語っている。「アメリカではこのような少年を目にすることはない。毅然とした少年の姿は驚きだ。赤ん坊を焼き場にそっと降ろした彼は、黙々と丘を登って行った。後を追い、慰めたいと思ったができなかった」と。帰国後は、国の監視の目を恐れ、写真類はトランクの奥に50年間もしまわれたままだったそうだ。この写真は後に、ローマ法王が「戦争の結果」とするメッセージを添えたカードにして、核軍縮シンポジュウムの参加者に配ったことを知った。写真展を見終えた夫と私は、参道を歩きながらも会話は少なかった。そんな中「あの少年は、その後生き延びることができたかしら」という言葉が、私の口からついて出た。
 その写真の残像は、いつしか幼少のころに見た光景につながっていった。終戦の年、私の一家は戦火を避け名古屋から父の実家のある新潟の村上へ疎開することになった。出発地となる名古屋駅の混雑ぶりはひどかったというが、当時4歳の私には、おぼろげな記憶だけである。ただ、そこへ向かう道すがらの情景だけは、今も思いだすことが出来る。道の両脇には、私と年恰好が似ている子どもたちが大勢いた。大抵の子どもは力なさそうに地面に横たわり、中には目をつむっている子もいたと記憶している。座っている子は、道行く人々に向かって必死に手を差し出している。私の手を引いていた母が「お腹空いてるんだね。上げられる物なにもない」とつぶやいた。私が次のような言葉で疑問を投げかけたと思う。「ねえ、どうしてあの子たちここにいるの」。その答えは私に怯えのような記憶を残した。「お父さんやお母さん、みんな戦争でいなくなったんだね」。
 もう70年も前の忘れえぬ出来事だ。だけど段々そのシーンの映像が薄茶色にぼやけて遠い日になりつつあった。この日の写真展が一挙に、幼少のあの時に見た子供たちの姿と重なった。過酷で哀しい運命に遭遇した子どもたちはどれほどいたのだろう。私たちは妙光寺の参道を歩き続け、それぞれの思いに浸っていた。背後に控える角田山はうっそうと秋の気配が色濃くなり、寺の境内にせまるかのようだ。