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元気屋母ちゃんおっとり父ちゃん
内藤三男 キイ 夫妻

2007年3月号

三男さんの婿入りで二人は一緒になった。当時イキさんの家は貧しい農家で、屋根は雨漏りし畳の敷かれた部屋は一間しかなく、あとは板の間にワラやスゲのむしろを敷いていた。父親が病身で九反の田んぼは母親とイキさんが担っていた。弟が一人いたが小学生の頃から「こんな貧しい農業は嫌だ」と言い、学校を終えると関東に出て行ってしまった。こんな毎日にあって、母親は妙光寺裏手の岩屋の七面様を熱心に信仰し、一晩中の月参りを欠かさない人だった。
  ある年の春、田んぼの苗作りに失敗して親戚に分けてもらいに行った。そこで「いい婿がいるよ」と紹介され、改めて本家と母親とイキさんが先方を訪ねた。「あのとき親と兄だけが私らの前に座って、本人は別の部屋にいたんだよ。どっちが私の相手なのかわからなかった。どうせなら別の部屋の人のほうがいいなって、思ったけどね。でもあんたあの頃意中の人がいたんだよね」とイキさん。「ウーン、忘れたな」と三男さん。
  すっかり気に入った母親の誘いで、三男さんはすぐに内藤家にやって来た。そのまま三ヵ月後に結婚式を挙げる二週間前まで戻らず、式の前日に布団となぜか下駄箱を馬車に載せてやって来た。以来四十五年がたった。いま、明るく活発なイキさんと、物静かで責任感の強い三男さんの仲はとても微笑ましく見える。
  イキさんは母親が三十三歳のときの初子で病弱に生まれた。それが名前の由来で、子供の頃も一人遊びが好きな引っ込み思案な性格だった。結婚後夫婦で農業をやったが機械化の流れについていけず、近くにブルボンの工場ができたのを機にやめて正社員の一期目として二人で採用された。このとき、朝早くから夜暗くなるまで働く周囲の農家の人たちを目にすると、勤め人になったの自分たちはこれでいいのか、随分悩んだという。誰にも負けないくらい一所懸命頑張ればいいんだと考え方を変え、以来すっかり健康で明るい性格になった。
  定年まで勤め終え、イキさんは厚生年金が満期になるまでと今度は病院の清掃係を三年、その後も頼まれては旅館の仲居、親戚の飲食店、スーパー、今はパチンコ店の清掃係に精を出す。旅館に勤めたときは女将が直々に頼みに来て、勤めてからは帰りが遅いせいもあってタクシーで送迎されたという。社交ダンス、カラオケといった趣味にも積極的だった。
  二人にも辛いときがあった。長女は嫁ぎ次男を分家に出した後で、頼りにしていた同居の長男が北海道に住む親戚関係にある一人娘と結婚すると言い出したのだ。若い二人の強い意思を止めることはできず、三男さんは心労から胃潰瘍になりすっかり老け込んでしまった。さらにそのお嫁さんに病気が見つかった。そのとき高額な治療費をイキさんはへそくりを吐き出して仕送りした。いまではお互いを気遣う関係になっている。
  二人暮らしになった今、三男さんは昨年春まで寺の世話方を勤めてくれた。イキさんは「すっかり元気になってこうしていられることを親と仏様に感謝している。まだ忙しくてお仏壇参りは朝晩手を合わせる程度だけど、お経が覚えたくて来月のお寺の参籠研修に申し込んだ。仕事を辞めたらもっともっとお参りさせてもらいます」という。

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