日蓮宗 角田山妙光寺 角田山妙光寺トップページ
寺報「妙の光」から 最新号 バックナンバー

教えてお上人

2013年12月号

小川英爾

日印上人
日印上人

―質問― 700年前に妙光寺を開いたという日印にちいん上人≠ニはどんな方ですか。

―回答―

越後の生まれ

日印上人は文永元年(1264)生まれの記録がありますが、生まれた場所は三条、寺泊、弥彦と諸説あって不明です。幼いころから聡明で学業の誉れ高く、8歳で石瀬いしぜ(現在の弥彦と岩室の中間の集落)の天台宗青龍寺しょうりゅうじ(現在は真言宗)に入り、仏教を学びました。

このころ、佐渡に流刑中の日蓮聖人を訪ねた弟子の日朗上人が青龍寺に泊まりました。その夜不思議な夢を見て目を覚ますと、利発そうな子供、当時の日印上人が足元に控えていたという伝承があります。日朗上人は日蓮聖人が三題目を遺された角田浜にも4回立ち寄られたと伝わります。

日朗上人の弟子に

成長した日印上人は各宗派の教えを学ぼうと比叡山始め京に学び、帰路鎌倉で日朗上人が『摩訶止観まかしかん』第一(中国で天台宗を開いた天台大師の教え)を講義するのを聞き、改宗して弟子入りしました。以来、摩訶一院日印まかいちいんにちいんと名乗ったのは、この縁によるといいます。

別の説では、8歳の日印上人が寺泊で佐渡向かう日蓮聖人に出会い、名前をいただいたともいいます。

文保2年、鎌倉幕府の命による他宗との論争を、高齢の日朗上人に代わり日印上人が行い、ことごとく勝ちました。以来鎌倉での布教を許可され、日印上人が一番の弟子と認められたという逸話『鎌倉殿中問答かまくらでんちゅうもんどう』が知られています。この時携えておられたのが、現在妙光寺でお祀りする日蓮聖人像≠セったと伝えられています。

郷里で布教

鎌倉で活躍された日印上人は、布教のため郷里越後に戻ります。お経を乗せた牛が止まって動かなくなり、ここに一寺を建立しました。近くに青い蓮の華が咲いていたことから青蓮華院しょうれんげいん≠ニ名付け、後に本成寺と改めたのが節分の鬼踊りでも知られる三条市の本成寺です。

さらに角田浜が日蓮聖人と師匠日朗上人ゆかりの地であることからここに妙光寺を開き、その他各地に寺を開かれました。そして嘉暦2年(1327)65歳で、現在の新潟市新津の妙蓮寺で亡くなり、墓も同寺にあります。

日朗上人は六老僧第一ろくろうそうだいいち=A日蓮聖人の高弟6人中1番とされています。日印上人は、師日朗上人の優れた弟子9人中の1番の意味で、朗門九鳳第一ろうもんきゅうほうだいいち≠ニ言われています。

  道順案内 連絡窓口 リンク