日蓮宗 角田山妙光寺 角田山妙光寺トップページ
寺報「妙の光」から 最新号 バックナンバー

激しさと優しさ
『日蓮は明日佐渡の国へまかるなり。今夜の寒きにつけても、牢のうちのありさま、思いやられていたわしくこそ候らえ』
日蓮聖人のお手紙 

2013年12月号

小川英爾

牢獄の弟子に

―日蓮は明日、鎌倉から佐渡の国へ旅立ちます。今夜の寒さを感ずるにつけても、あなたが捕えられている牢屋の中のことが想像されて心が痛みます。―幕府に捕えられて土の牢屋に入れられた弟子の人たちに宛てた、日蓮聖人からのお手紙の書き出しです。

『法華経』をひろめることに生涯をかけた日蓮聖人は鎌倉幕府の反感を買い、たつの口(現在の神奈川県江の島海岸の近く)≠フ処刑場で首をはねられるところでした。しかし刀が折れて首切りはまぬがれ、佐渡島への流刑るけいに変更されたのです。そのとき弟子5人も同様に捕えられて、鎌倉の崖を掘った土の牢屋に閉じ込められていました。季節は現在の11月。当時の気候は今の時代よりずっと寒かったようです。

実はこの10月、毎月第1日曜に集まる信行会の有志で、佐渡島のお寺参拝の旅を予定していました。ところが台風の到来で前々日に中止を決定。予報通り当日は暴風雨で、佐渡汽船は終日全便欠航でした。冬には時々あることです。離島の生活の不自由さを改めて思いました。現代でさえこうなのですから、730年前の日蓮聖人の時代、11月に流刑地佐渡島に向かう不安はいかばかりだったでしょう。

しかも首切りをまぬがれた上で、再び生きて帰ることはできないとされる流刑地へ向かうのです。

過酷な中で

こうした過酷な事態の中で、文字通り明日出発という前夜、護送された相模の国依智えち(現在の神奈川県厚木市)から弟子の身を心配したお手紙を出されたのです。さらに続く文章で、日蓮聖人に師事し『法華経』に身を挺して修行する弟子たちの尊さを讃えています。

この手紙を受け取った5人の弟子は、日蓮聖人の深い愛情と信頼に涙したことでしょう。

この5人のなかに、一番の弟子と言われた日朗上人もいました。日朗上人は土牢から釈放された後、2年半に及んだ流刑中の日蓮聖人を8回訪ね、うち4回は角田浜にも足を運ばれたと伝えられています。

日蓮聖人のイメージ

一般に日蓮聖人は、他の宗派を攻撃した気性の激しい人という印象を持たれています。当時の鎌倉は武家社会で、暴力による支配が人々の心を不安にし、さらに疫病の流行、大地震や飢饉が続き明日の命すらままならい時代でした。庶民の平均寿命は24歳だったという最近の研究もあります。このように混乱した時代の中で、信念を持ってお釈迦様の真実の教えを弘め、社会の安寧あんねいを願ったのが日蓮聖人でした。激しい気性という印象を与えるのも無理からぬことかもしれません。しかしこれは後世に作られたイメージに過ぎないとの説もあります。

数多く遺っている日蓮聖人のお手紙は、迫害を受けた弟子を気遣う優しさや、家族を亡くした信者をいたわる愛情に溢れた文面で、その心配りの細やかさが強く伝わるものが多いのです。その代表的なものが、自身も生きて戻れそうにない佐渡島流刑の前夜、弟子の身を案ずるこのお手紙と言われています。現代社会の指導者と言われる人や、自分自身に当てはめて考えてみたとき、どのように思われることでしょう。

  道順案内 連絡窓口 リンク