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開創七百年記念インタビュー 身延山大法要のご縁を、ともに喜びたい
―久遠寺布教部長吉村明悦上人に聞く―

2012年12月号

来年3月、開創七百年法要を催させていただく身延山久遠寺は、日蓮聖人が52歳からの約9年間を過ごされた地です。熱心な信者であった領主波木井公が、文永11(1274)年日蓮聖人をこの地にお迎えしました。日蓮聖人は弘安5(1282)年、現在の東京大田区池上でお亡くなりになりましたが、ご遺言に従って、ご遺骨は身延山に奉安されています。七百年法要での参拝を前に、身延山久遠寺布教部長吉村明悦上人にお話をうかがいました。

Q.私は初めて久遠寺に伺ったのですが、本当に大きなお寺ですね。
(吉村)日蓮宗は、全国に約5,500の寺があるのですが、ここ久遠寺もその中の一つです。そしてここは、日蓮聖人が開山されたお寺で、日蓮宗の総本山でもあります。
Q.久遠寺には、何人くらいのお坊さんがいらっしゃるのですか?
(吉村) 現在久遠寺には、私を含めて54名の僧侶がいます。54人で様々なお寺の仕事を分担しています。お寺に泊まることもありますが、基本的には皆通勤しています。それ以外に、久遠寺で修行をしている人たちがいます。身延山大学と身延山高校の学生・生徒の一部、現在41名が、在院生として久遠寺の学寮に寝泊りして修行しています。それから、僧道実修生という一年間久遠寺で修行をしている人たちが、現在9名います。この実修生は、僧侶として実践的に学ぶことを希望して、久遠寺にやってきた人たちです。
Q.日蓮宗の僧侶になる際、必ず行わなければならない久遠寺での35日間の修行というものがあるそうですね。
(吉村) 日蓮宗の僧侶になるときには、学科テストと実技テストを受けた後に35日間の修行を行います。これは、日蓮宗の宗門が行っている修行です。5月・6月・9月と年に3回ありますが、六月は尼僧さんの修行です。この人たちは、日蓮上人のご廟所の近くにある信行道場に寝泊まりして、修行しています。
Q.久遠寺の一日の様子を教えてください。
(吉村) 10月から3月は冬時間で、朝5時半に大鐘を撞きます。夏時間では、朝5時に撞きます。これが、久遠寺の一日の始まりです。そして6時に、朝のお勤めが始まります。信行道場の修行僧は、うちわ太鼓を叩きながら、坂道を登ってきます。久遠寺の僧侶、在院生、実修生、皆で本堂、祖師堂、すべてのお堂で読経し、7時半に終了します。それから朝食をいただき、そして清掃ですね。その後、学生は登校し、私たち僧侶は仕事をします。読経は12時、3時には、ご祈願ご回向のお経をあげます。夕方は5時に本堂を閉め、清掃をします。その後は、在院生や実修生は、読経の練習をしたり、読めないところを僧侶から習ったりしています。 夜勤やごんといって、夜になってから読経をすることもあります。
Q.5時半ということは、その前に皆さん出勤なさるんですか?
(吉村) もちろん、その前に大鐘を撞く準備もしなくてはなりませんし、遠方から通勤している僧侶もおりますから、3時半ごろには起きて支度をしてお寺に向かいます。
Q.日蓮宗の修行というのは、どういうことをするのですか?
(吉村) お経の意味を学んで読みを深めたり、読経の練習をしたり、といろいろあります。たとえば、11月から2月10日まで行われる日蓮宗の伝統的な荒行にならって、ここでも在院生や実修生が朝と夜に水をかぶっています。久遠寺では強制ではなく、あくまで各々の体力に応じてやりなさい、ということですが、朝5時半から皆頑張っています。一般的な「修業」と「仏道修行」は、意味合いが違うと思います。「修業」は技術(わざ)を修めますが、「仏道修行」は行いを修めるのですから、精神的な意味が大きいのです。弱い自分を鍛えて、人を導き人を支えられる人間になるためのものです。そのためには技術(例えば葬儀ができるとか)があればいいわけではない。人が苦しんでいる時に、それをどう支えるかということがなければなりません。自分自身が辛いことを乗り越えないと、苦しみには応えられません。人を支えるために、精神を浄化するものが修行だと考えています。
Q.身延山で生活しておられて、日蓮聖人がこの地を選ばれた理由はなぜだと思いますか。
吉村上人の実感を、教えてください。
(吉村) 日蓮聖人は、領主波木井公に招かれて、文永11年5月17日に入山されました。日蓮聖人はその日まで、衆生救済のために文字どおり命がけで法華経の教えを広めてきたのです。そのために度重なる法難に遭い、佐渡に流罪となり、赦されて佐渡から帰り約1ヶ月半の間鎌倉にいて、そして身延山に入られました。 鎌倉時代ですから、武士が権力を握る厳しい身分制社会でした。一般の商人や農民は、大変つらい生活を強いられていたのです。しかも天災が相次ぎ、疫病や飢饉、戦さが続いて、希望のない時代でした。その時代に、日蓮聖人は法華経の教えを説きました。『法華経』は、人は皆平等で、皆に幸せになる権利があり、皆が幸せになってこそ国が幸せになるという教えです。しかし、苦しい時代ですから、早くあの世に逝って楽になろう、阿弥陀様のところに行って幸せにしてもらおうという『浄土教』の教えもありました。それに対して日蓮聖人は、夢を捨ててはいけない、本当の幸せをつかまなくてはいけない、と説いたのです。そのために、時にはかなり強い言葉で、教えを説くこともありました。 そんな厳しい歳月の後に、日蓮聖人は身延山に入られました。当時は今以上に身延山の自然環境は厳しく、雪が3メートルも積もったそうです。木々も生い茂っていたでしょうし、交通の便も悪い。作物も豊かではない土地でした。そういう場所だったからこそ、ここで信者さんたちが食物を分けてくださる、ご供養してくださることに、日蓮聖人は有難いとお感じになったのではないでしょうか。豊かでない環境で心の豊かさを実感された。本当の喜びと感謝をお感じになった。身延は自然への感謝を十二分に感じられる土地だった。日蓮聖人は法華経の精神をこの身延の地で体得されたのだ、と私は個人的には考えています。
Q.日蓮聖人は大変激しい方で、私は少し近づきがたいところを感じるのですが、そこには時代の厳しさがあったということですか?
(吉村)『たとえ強言なれども、人を助ければ、実言軟言のことばなるべし』というお言葉があります。「たとえ強い言葉でも、人を助ける言葉ならば、意味ある言葉、軟らかい言葉であるはずだ」という意味です。幼子が道路に飛び出そうとしたら、お母さんは厳しく叱りますよね。それは、本気でその子を守りたいと思うからです。真剣であるからこそ、日蓮聖人は強い言葉も使ったのだと思うのです。
Q.よくわかりました。最後に、来春の法要に参加する皆さんに一言メッセージをお願いします。
(吉村) 妙光寺開創七百年、おめでとうございます。また身延山への参拝、ありがとうございます。一ヶ寺での七百人の参拝は、未曾有の出来事です。本当に素晴らしいと思います。皆さんは妙光寺にご縁をいただいて、身延山に来てくださいます。このご縁は、偶然のことではありません。ご先祖様もきっと喜んでおられます。七百年記念参拝の喜びは、目に見えない先祖や、皆さんと縁を結ぶ周りの方たちの喜びでもあります。私も皆さんとのご縁を、喜びたいと思っています。
どうもありがとうございました。
(聞いた人 編集部 新倉理恵子)
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