時に我れ及び衆僧 ともに霊鷲山に出づ 『法華経如来寿量品第十六』 |
2012年12月号 |
小川英爾 |
この世は苦
私たちの住むこの世界は苦しみに満ちているというのが、お釈迦様の説かれる仏教の基本的な立場です。そもそもこの世に生まれて生きていかなければならない苦しみがあります。そしてやがては老いて病み、最後に死を迎えることは誰もが避けて通れない苦しみです。
また、欲しても自由にすべてを手に入れることはできず、嫌なことにも向き会わなければばらないのが人生です。家族をはじめ愛しい人との別れも人生の定めです。
この苦しみから逃れ楽な世界にあこがれたのが『浄土教』の教えである、「極楽浄土」や「安楽世界」と言われる考え方です。
実在する霊山浄土
標題にある「霊鷲山」はインドに実在する山で、お釈迦様はここで『法華経』を説かれました。そのときの情景がお経の随所に記されています。「そこは平和で気候がよく、風光は美しく草木多く、花は咲き乱れ色々の果実が熟し、食料は豊かで鳥は歌い蝶は舞ってる。大勢の人々が楽しく生活し、香しい風はそよそよ吹いて花びらは揺れ、どこからともなく妙なる音楽が流れてくる」とあります。
ここに住む人々が真実を求めてお題目の信仰に熱心に務めるならば、「私(お釈迦様)は弟子たちを連れてここに現れる」と述べられたのが表題のお経です。
私もインドを旅して霊鷲山に登り、お参りしたことがあります。目に見える現実の世界は、岩山ながら緑も豊かで風がさわやかな普通の山の景色でした。でもそこで読経して、とても心の安らぐ世界が心に浮かびました。
理想の世界に向う修行を
この霊鷲山を略して「霊山」と呼び、日蓮聖人はこの霊山こそ浄土であると仰り、「霊山浄土」と称されました。こここそ理想の世界、お釈迦様の住まわれる世界で、私たちが修行に精魂打ち込む所とされたのです。
この「霊山浄土」には3つの意味があります。一つは冥土と言って私たちが死後に赴く世界という意味です。二つ目には「霊山浄土」は、この世にこそ作り出すべき理想世界です。私たちがお釈迦様の説かれた『法華経』を信じ、南無妙法蓮華経の信行をする所。すなわちこの苦しみに満ちた世界から、全ての人の心が豊かに満たされた世界ということです。そして三つ目には日蓮聖人がお釈迦様に代わり『法華経』を説かれた身延山こそが、「霊山浄土」であるという意味です。
表題のお経は私たちの理想とする世界を「霊山浄土」と言い、お題目の修行によってその実現を目指すとき、お釈迦様の悟りの境地、お釈迦様の世界に到達することができるという意味なのです。
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