日蓮宗 角田山妙光寺 角田山妙光寺トップページ
寺報「妙の光」から 最新号 バックナンバー
HOME >> 寺報「妙の光」から >> バックナンバー >> 2003.12〜2013.12 >>「妙光寺とともに歩み、妙光寺の明日を思う」

妙光寺とともに歩み、妙光寺の明日を思う
―退任される総代さんに聞く―

2012年7月号

新倉理恵子

 妙光寺では檀信徒の皆さんが、20数名の世話人会を中心にお寺を運営しています。世話人の中から互選で3名の総代を選出します。このたびの改選で、2人の総代さんが退任されます。留任のお一人も交え、総代さんたちにお話をお聞きしました。

小林康徳さん(71歳)
1964年(昭和39年)に世話人になり、その翌々年31歳で総代に。以来40年、先代・当代と二代の住職を支えてきた。病気のため退任される。
内藤昭一さん(75歳)
ご両親は妙光寺で出会い結婚。昭一さんも、若いころから両親とともにお寺を支えてきた。お父様の亡き後、平成8年から世話人となり、平成16年から総代に。定年のため退任される。
大滝 剛さん(61歳)
平成10年世話人となると同時に、総代に。小林さん、内藤さんの退任に伴い、お二人の思いを引き継いでいくことになる
Q.小林さんは先代住職の時に総代になられたんですね。
(小林) はい。29歳の時、総代だった父が亡くなって、先代から「会議があるから後ろに座ってろ。」と言われたのが最初でした。その2年後に総代になって、内藤さんのお父さんや大滝さんのお祖父さんとのお付き合いも始まり、勉強させてもらいながらの40年でした。 最初のころは、檀家の重鎮だった五箇浜の遠藤の旦那様も健在で、会議の後「こう決まりました。よろしいですか。」と旦那様に伺うような会議のあり方でした。先代は苦労されたと思います。
Q.先代が亡くなられた時、当代の住職はまだ大学生でしたね。
(小林) 実は、遠藤の旦那様のお通夜に先代と一緒に行った帰り道で、先代から「次男の英爾(現住職のこと)が後を継いでくれそうだ。良かった。」と言われたんです。その後、昭和49年に先代が亡くなる時、私も町立病院に駆けつけました。病床に行くと、先代は私の手を握って何か言おうとするんです。でも言えないようだったから、私が「ご前様、大丈夫。英爾さんのことは引き受けました。」と言いました。それから5分ほどして、先代住職は息を引き取られました。 その後、世話人会議で後継住職をどうするかが話し合われました。英爾さんはまだ大学3年生だし、すでに大学の助教授になっていたご長男を推す声もあり、まとまるまでにはいきさつがありました。最後はご縁の深い寺泊の法福寺のご住職が「ぜひ英爾さんを後継に」と推薦されて、世話人会もまとまったのです。大学卒業と同時に入寺式を盛大にやりました。ホッとしたのをよく覚えています。
Q.先代のご苦労を、もう少し聞かせてください。
(小林) 本当に先代は辛抱されました。とにかく時代が悪かった。寺の建物も傷みがひどくて、客殿を直したいとずっと考えておられましたが、果たせませんでした。ここは土地は広いけれど、収入が少ない。どうやって安定した運営をしていくかが、難しい課題だったのです。 (内藤) 昭和40年頃までは、4月のご判様には近隣の若者も大勢集まったものです。それでも、寺の運営は厳しかったんです。
Q.ユースホステルをしていたことも、ありましたね。私は実は、小学生の時、
  妙光寺のユースホステルに泊ったことがあるんです。
(内藤) それなら、うちの母親の料理を食べてるね。いつも台所を手伝ってましたよ。ユースホステルも何年かはよかったけど、その後はうまくいかないし、ここでは保育園も経営できないし、とにかく寺の運営は大変でした。
Q.先代の七回忌の昭和56年に、客殿を直したんですね。
(小林) 少しずつ時代が良くなってきたんですよ。借金をして、直しました。でも大変でした。ずっとなんとかしたいと考えていましたね
Q.そこで、平成元年に安穏廟ができるのですが、最初に計画を聞いた時は、いかがでしたか。
(小林) 実は私は、ずっと以前に先代住職に「あの広い土地を墓地公園にしたらどうか」と話したことがあります。これだけの土地があれば立派なものができるし、運営も安定する。私の一つの夢でした。でも先代は「そんなことをすると、近くの日蓮宗の檀家を奪うことになるから、妙光寺は嫌われてしまう」とおっしゃいました。当時は全国から墓を求めて来られるなんて、考えられなかったわけです。だから初めて安穏廟の話を聞いた時は、夢が実現する!とうれしかった。 (内藤) 私の親父も、とにかく寺として収入を得るために何か事業をしなくては、と安穏廟には一生懸命でした。でも、他にないような新しい形だからT期目の工事のときは、冒険でしたね。 (小林) ご前様が「心配だから少しずつ作る」と言うので、「きちんと借金して投資して、初めからある程度の規模のものを作らないと、ちゃんとした事業にならない」と言ったんです。でも客殿の借金の返済が終わったばかりだし、2〜3年やって駄目なら、残りは檀家皆で返済するしかない、と思っていました。それがどんどん申し込みがあって、こんなことになるなんて夢にも思わなかった。 (大滝) あの時は、皆心配して大騒ぎで、マスコミは来るし、ある種のパニック状態でした。私は若かったから大して感じてなかったけど、父は大変そうでしたね。 (小林) 時代が変っていたんです。1989年ですから、バブルも終わりが見えてきて、モノから心へ皆の思いが移っていく頃でした。 (内藤) そのおかげで平成13年には本堂の建替えもできました。その前に古い本堂の屋根が風でめくられた時は、ブルーシートを張って、みすぼらしい寺になったと思って辛かった。だから、本堂の竣工式は、うれしかったねえ。 (大滝) 私は本堂の建替えが決まった時に、大事業になるからと言われて、体調を崩した父の代わりに総代になりました。小さい頃から祖父・父と総代を務めるのを見てきたので、自分に務まるかと最初は不安でいっぱいでした。
Q.では、これからの妙光寺について、思うところをお聞かせください。
(小林) 「原点回帰」が大切です。若者が新宗教に流れる時代も終わり、従来の仏教が見直されている時代です。妙光寺もその中で、自らの原点を見つめなおすときです。このお寺には、日蓮聖人の足蹟が数々あります。これらに象徴される教えを若い檀信徒に伝えていくことが、今大切だと思っています。 (内藤) 若い人にどうやって来てもらうか、ですね。2、3年前、寺に来たバスの運転手に「ここら辺には珍しいくらい、立派ないいお寺だ」と言われました。確かに立派になって、本当にうれしい。反面、良くなりすぎて、やることがなくなった気もします。 (大滝) 歴史のあるお寺の七百年に出会えるなんて、いい巡り合わせだと感じています。七百年の身延山参拝は、盛大に成功させたいね。 (内藤) うちは、10人以上で身延山に参加するよ。 (大滝) 壇信徒だけでなく、安穏の会員さんたちも含めて、仲間の人たちにたくさん参加してほしいと思ってます。 (内藤) あと、山側の墓地の区画整理を頑張ってやってくれね。そこまでやると、ご前様も大したもんだと言われるよ。

わかりました。ご住職に伝えておきます。どうもありがとうございました。
  
(聴いた人 編集部・新倉理恵子)

  道順案内 連絡窓口 リンク