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「常に悲しみを抱いて心ついに悟りにいたる」 
法華経・如来寿量品第十六

2012年7月号

小川英爾

葬儀はみな悲しいものですが、事故でも病気でも、幼い子の葬儀は悲しみも一層深く、正直なところ住職としてもつらいものです。その後、墓地や本堂にお参りする姿を見かけても、一様に寂しさが漂っています。数年前にお嬢さんを事故で亡くした友人も、今も心の整理はついていなし、決して忘れることはできないと話してくれました。

それでも多くの場合、葬儀の後、四十九日、一周忌、やがて三回忌と過ぎる中で、少しずつですが表情が和らいでくる感じがします。しかも、以前に比べて柔和な顔つきに見えてくることも多いのです。悲しみが消えたわけではありません。その悲しみと共に歩んでいるということなのでしょうか。

お釈迦様がある村に入られたとき、ひとりの女性に泣きつかれました。「あなた様はどんな悩みにも応えてくださると聞きました。私は夫を亡くし、この子を頼りに生きてきました。それなのに、この子まで急死したのです。ぜひ生き返らせてください。」6,7才に見える男の子の遺体を抱えた女性をご覧になったお釈迦様は気の毒に思われ、生き返る薬を調合するから、ケシの種をもらってくるようにおっしゃいました。ただし、不幸のあった家の種ではだめだと付け加えられたのです。

女性は日暮れまで家々を訪ね歩きましたが、ついにケシの種を貰うことができずに戻ってきました。「お釈迦様、世界中で自分が一番不幸な女だと思っていました。でも他の人たちも皆、不幸を抱えて生きていることに気が付きました。」そのとき、お釈迦様は女性の肩にやさしく手を置いて「とても良いことに気が付いた。この不幸を受け入れて力強く生き抜くとき、この子はあなたの心の中に生き返るでしょう」と諭されたのです。よく知れたお釈迦様のお話です。

表題は、父親を亡くした子供たちに説かれたお経の一説で、「常に悲しみの心に満たされ、繰り返し嘆き悲しむうちに、必ず心は悟りに目覚めることができる」という意味です。

私たちにとって大切な人との死別ほど悲しく辛いことはありません。その悲しみは生涯忘れられないほど深いでしょう。一方で、常に悲しみの中にあってこそ、他人の悲しみや苦しみを深く理解できるのです。これは仏教が説く、より深く大きい悲しみや慈悲の心に近づく道です。仏教では、自身の悲しみがより広く深くなることで、その悲しみから救われると説かれています。

若くしてご主人に先立たれ、生まれつき障がいのある子を抱えたお母さんから「最初は本当に辛かったです。でもこの子の純粋な心に教えられることばかりで、この大変さは神仏に戴いた贈り物だと真から思うようになりました」と、気負いのない言葉を聞いたことがあります。悲しみに救われるとはこのことかと、実感させられた思いでした。

今年もお盆がきます。故人を偲びつつ、亡き人も共に今を生きている、そんな思いで過ごされることを願います。

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