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聖なる山と妙光寺

2011年3月号

小川英爾

山号の由来の謎

妙光寺は新潟市の中心部から海岸線に沿って南西に25キロ程、角田山の麓に建つ。正和2年(1313)創健の記録があるので、2年後の2013年に開創以来700年を迎える。古い歴史と言われるが、同じ村内の浄土真宗の寺は千年以上経つなど、近隣には他にも古い寺が多い。特に角田山から弥彦山、国上山(良寛さんが晩年住んだ五合庵がある)にかけての角田・弥彦山周辺は、古墳も発見されるなど古代から人の住んだ歴史があり、宗教的にも興味深い話が沢山残る。

正式には角田山妙光寺(かくださん・みょうこうじ)というその名の由来にも謎がある。寺は山号といって寺名の上に山の名前が付くのが慣わしで、これは中国では寺が山中にあったことに由来する。では角田山の周囲には妙光寺より古い寺も多いのに、なぜ妙光寺がこの土地のシンボルとも言える角田山(かくださん)の山号を持つのか。


岩屋の七つ頭大蛇伝説と修験道


岩屋

妙光寺の裏手に岩屋″と呼ぶ大きな洞窟がある。文永8(1271)年10月、佐渡島流しの日蓮聖人は寺泊から船出されたが、悪天候で角田浜海岸に漂着された。そのとき現れた老翁から「近くの洞窟に七つの頭を持つ大蛇が住むので『法華経』のお力で退治して欲しい」と願われた。日蓮聖人によって教化された大蛇は、「この後は法華経の信者をお守りします」と、現在の山梨県身延山久遠寺の裏手にある七面山に移り棲んだといい伝わる。この岩屋の前一帯はボウクボウ″と呼ばれ、その昔は寺が幾つもあったと言われるところから、坊(小さな寺)が九つあった坊九坊″ではないかと歴史家は言う。そこで私は日蓮聖人に教化されたのは七つ頭の大蛇ではなく、日蓮聖人に法論で負けた七人の修験道の山伏ではないかと想像する。

なぜ山伏か。この岩屋の奥は国上山にある真言宗国上寺の本堂裏手に今も開いている風穴に通じ、岩屋の焚き火の煙が出てきたとか、追い込んだ犬が出てきたという伝説が双方に残っている。この国上寺は越後一の古刹としてかつて修験道の中心道場であり、弥彦神社とも深い繋がりがあった。その昔寺と神社は一体だったのが、明治政府は寺と神社を分離して寺を激しく弾圧する仏教廃止政策(廃仏毀釈)をとった。中でも仏教と神道が密接に混じった修験道は壊滅的にやられ、県内でも八海山などにその痕跡が残るのみだ。

妙光寺は日蓮聖人が亡くなられて33年目に、孫弟子の日印上人が開いて3人の弟子にそれぞれ妙法寺(これが改名して現在の妙光寺)、蓮華寺(現在新発田市の蓮昌寺)、経王寺(現在は村上市)を継がせた。この3人が元は国上寺の弟子だったと伝わっている。国上寺の山伏が角田山を始めこの山々を修行の地として縦横に歩き、なかでも角田山にゆかりの深い山伏が日蓮聖人か後の誰かに出あい、妙光寺の創建につながり山号となったのではないか。七つ頭の大蛇伝説もこうした中から生まれてきたと想像している。

開山日印上人と聖地・石瀬


青竜寺本堂と日印上人お手植えという梅

日印上人像・妙光寺蔵

角田山と弥彦山の間に多宝山という山がある。この麓が温泉地で知られる岩室。ここの石瀬は岩室の聖地と言われるほど古刹が並び、なかでも種月寺は曹洞宗越後四大道場の一つに数えられ、最近改修された本堂は国の重要文化財に指定されている。天保8年(736)の開創という、さらに歴史の古いのが真言宗青竜寺。妙光寺を開いた日蓮聖人の孫弟子の日印上人はこの寺の小僧だった。佐渡島の日蓮聖人を訪ねる弟子の日朗上人が青竜寺に泊まり、仏様が夢枕に現れて眼をさますとこの小僧が足元に控えていた。利発そうであり鎌倉に連れ帰り弟子にしたという。長じて日印上人はやがて郷里に戻り、節分の鬼踊りで知られる三条市の法華宗総本山本成寺をはじめ、日蓮聖人ゆかりの地に妙光寺他を開かれた。

その多宝山は以前は十宝山と書いた。岩室と反対の海側には銅山跡があり元禄時代に盛んに採掘された。ここには宝川が流れ、また銀山や金池などの地名も残るなど、まさに宝の山である。全国各地に残る修験道の修行の山はこうした鉱物資源が豊富で、山伏は山師にも通じるというのが通説である。麓の石瀬の寺も廃仏毀釈で修験道は跡形も無いが、往時はその拠点だったと考えられている。こうしたことからも、角田山、多宝山、弥彦山、国上山の連山はその昔修験道の山伏が活発に修行する霊山であったことが容易に想像される。

角田・弥彦山塊の西方浄土イメージ

この山々は今も昔もその東に広がる蒲原の平野から、西に沈む夕日で茜色、あるいは黄金色に染まる風景が印象的だ。ここから昔の人々は西方浄土、極楽の世界をイメージし、石瀬もその聖地のひとつだと東側の各地にいい伝わる。明治以前は弥彦神社も仏教と一体だったから、神社と極楽浄土が一緒に扱われても違和感は無い。また数年前、新潟市に住む高齢女性から「夕方部屋の窓から遠くに見える角田山を眺めて、あの辺りに妙光寺さんがあるんだ、そこに主人が眠っている、そう思って拝んでいます」と書かれた手紙を戴いた。今も昔も人の気持ちは変わらない。

古来からのシンボルを歩く

この角田山と弥彦山を西側、日本海の海上や佐渡島から眺めると、洋上に浮かぶ二つの島に見える。古代に海上を移動した人々からは大きな目印となったことは想像に難くない。角田山周辺だけでも140もの遺跡が発見され、また弥彦神社の神様が海からやって来て上陸されたという場所があるなど、古くから海沿いに人が到来したといわれる。さらには角田浜の隣村、越前浜は越前の国から戦禍を逃れた村ごとの移住者だし、原発計画で消えた角海浜も元は能登の門前町がそのルーツだ。また国上山の海側の野積集落はやはり能登から移住し、酒造りの文化を持ってきたから今も杜氏が多く新潟の酒造りを支えて来た。

さらに弥彦神社の神様は片目で鍛冶屋の神様と言われた時代があって、山伏の鉱物資源の話と共通する。またこの弥彦神社と国上寺との深い繋がりなど、古来から宗教的聖地としての角田・弥彦山を物語る話はきりが無い。最近は山野草ばかりが関心を引き、こうした古い話が忘れられているのが気になっていた。


弥彦神社の祭神が上陸されたとされる米津浦

この山々を昔の山伏のように縦走してみたいと考え、関心を持つ美術評論家で新潟市の大倉さんをお誘いし、昨年4月早々に国上山から登った。この季節には珍しく山頂に雪が残る弥彦山で難渋しながら、夕方になったため多宝山で石瀬に下山。雨交じりの雪にも見舞われたが、日本海と蒲原平野を左右に眺めながら山伏の気分を少し味わった。この春に残りの多宝山から角田山までを歩く予定でいる。前回のように道が整備されているのか、それともヤブをかき分けて歩く修行の道になるのか。


国上山登山道の入口に立つ鳥居も神仏習合のなごり
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