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HOME >> 寺報「妙の光」から >> バックナンバー >> 2003.12〜2013.12 >> 「大いなる命に生かされている己」を体感した荒行

2回目の寒百日間の荒行に鎌田上人が挑んでいます。4月から妙光寺に勤務する永石上人(34歳)は、「法華経寺」の荒行堂ですが、同様にこれを2回終えており、その体験を書きました。

「大いなる命に生かされている己」を体感した荒行

2009年12月号

永石光陽(執事)

「俺は何をやってんだろう?」何度も何度も頭の中をめぐる。百日行とは、誰でも入れるものではない。お寺を空ける条件を整え、なおかつ自分で志、進んで願う者だけに許される。結界の中で生活をしながら、一日7回の水で身を浄める。それ以外は堂内で読経三昧。毎日睡眠時間2時間少々の中、自身を御祓(みそぎ)くのである。

 

行中は、一日一日がとても長く感じる。それが百日となると途方もない日々に思え、気が遠くなる。「本当に自分はここでやっていけるのだろうか?」望んで入行したにもかかわらず、不安や疑問に幾度も直面する。その度に自分に負けまいと奮い立たせる。幾度となく繰り返す葛藤の中で、自分自身を見つめ直す。

 

決められた課行以外の生活も行僧で補う。食事を作ったり、水行の用意をしたりと、行僧それぞれに役割が与えられる。各自が役目に責任を持つことで修行僧全員の生活が成り立つ。初めて入行する者、2回、3回と何度も入る者、それぞれ立場が違い、求めることも違ってくる。初めて入る者は、行者の心得の根幹を自身の体で行うことで整え、日蓮宗独特の祈祷法、木剣祈祷を修めていく。そして、2回目に入る者には、初めて入る者を叱咤激励しつつ、行全体を円滑に行うべく自分の時間を割く。初めて入った時とは求められることが違う。それは、3回目、4回目でまた違う。

 

立場も役目も違う全行僧に一貫して言えることは、行中いろんな自分自身と向き合わなければならないことだ。醜い自分がふと出てくる。「もう少し寝たい」「人より楽をしたい」「おいしい物を腹一杯食べたい」等々。それどころか「もうこんな生活したくない」「なんでお坊さんになってしまったのだろう」と後悔の念まで吹き出す。すると、その後ろ向きの気持ちが、より一層水を冷たく感じさせ、眠気をどっと引き起こす。醜くい弱い自分を認識させ、そんな「今ある自分を悔いていく」ことを幾重にも繰り返す。その中から自分に備わる、芯なるものをしっかりと見いだしていく。百日での修行の肝要なことの一つである。

 

毎日7回の水行も日を追うごとに変わってくる。最初冷たく感じた水も、次第に刺さるように痛く感じ、寒さ極まる頃には重いものがドスンと上から落ちてくる感覚を受けるようになる。そこまでして身を浄める。なぜそんなに浄めることが必要なのであろうかと、疑問に感じる人がいるかもしれない。何か特別な力を身につけ、特別な存在になる為ではない。私は身を浄めることで、本来自分自身に備わっているものを見いだしていく姿ではないだろうかと考える。

 

極限の状態に追い込まれた時、私は不思議なことを体感した。初めて荒行に入行した時のことである。今までの生活が一変した状況で、最初の3日間、食事のお粥が全くのどを通らなかった。もちろん、ゆっくり食事を頂く時間などない。短い時間に胃に流し込むように皆が食べていた。「飯を食べないと持たない」そんな焦りが吐き気となり、より一層食事を通らなくさせた。空腹を感じなんとか凌ごうと、水行前の水を飲んで体力を持たせようと必死になった。このままでは持たない。如実に体の変化となって現れ、急激な衰弱を感じた。あまりに食べられない私を見かねた先輩僧が、「遊びに来たんじゃねえ、食べるのも行だ、食エッ」と一喝。意を決し喉に押し込み、胃から逆流するお粥を手で塞ぎながら、すぐに水行場へと走った。しばらくして水行で冷えた体が、胃の中心から体の隅々へと熱を伝えだんだんと暖まり、力が湧いていくことを感じた。『食して命を得ている』と思った。今でも忘れられない。『大いなる命に生かされている己』を感覚として刻んだ時だった。

 

当たり前のこと、誰もが日々積み重ねていることである。日常にあることが今更ながら特別に感じた。以後日を追って研ぎすまされていく五感と変わる自分の意識は、元来自分に備わっているものや支えているものを気づかせてくれる。必死な毎日にふと家族のこと、檀徒の顔、送り出してくれた多くの人のことを思い出す。また身近なことや周囲のことに気づいていなかった自分に気づく。目先のことしか考えていない、惨めな自分を知る。それ故に百日を終えると、以前とは違う自分を感じる。変わるというより、余計なものを削ぎ落としながら、本来備えていた姿に還っていくように感じた。

 

この荒行で目指すべき所とは何であろうか。それは一つの雑巾だと私は考える。水で自分の身を浄めては、周りを自分で清めていく。自身を汚しては、また清め、汚れる。周囲の心の垢を拭っては清める。雑巾の姿に仏教でいう菩薩行の姿を重ね、イメージする。なぜ行を修めるのかとは、まさに自分と周囲の垢を拭うためではないだろうか。これを「化他行」という。もし、百日行に入る修行僧が、このことを忘れてしまったら、それはただ単に自己満足でしかない。だからこそ、この荒行はあくまでも自身を高める為だけの修行を目的としない。

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