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借財を負って 新潟市 山田三郎さん 67歳

2009年7月号

小川英爾

倒産を告知する当時の文書
倒産を告知する当時の文書

会社の不振

長引く不況の時代、山田さんは引き継いだ会社の倒産で今もその借財を返済する日々を過ごしている。それでも今「つくづく生きていて良かった」と明るく語る。

四男二女、六人兄弟の三男に生まれ、中学生の頃にはすでに兄姉三人は家を出ていた。農業高校を卒業して運転手や土木作業員として働いた。23歳のとき、親戚の起こした新潟の家具卸販売会社に誘われて入社。営業マンとして東北六県と富山長野県等を担当して販路を拡張、文字通り社長の右腕として会社の売り上げに貢献した。ピーク時には34人の従業員を抱える県内でも中堅企業に発展、山田さんは社長の親族ということで株を保有し専務になった。

家庭にあってはワンマンな父親と身体に障害を持ちながらもわずかな畑仕事に精を出す母親、それに妻子と六人家族。古くなった家も建て替えて、ローンを払いながらもそれなりに幸せな日々を過ごしていた。

やがて父親に続いて母親も亡くなった平成8年、その年の6月に社長が会長職に退き山田さんは請われて社長に就任する。しかしその頃すでに不況の兆しか、売り上げは落ち始めていた。翌年会長が死去すると、部長になっていた会長の長女が経営に口出しを始める。そして消費税が3%から5%に引き上げられ、これを期に一気に景気が落ち込み、県内の同業社のみならず、仕入先のメーカーまでもが相次いで倒産。苦境の最大手のメーカーが製造から卸までを独占するなど、山田さんのような地方の中堅卸会社はとても厳しい環境に追い込まれた。そのころは県内の銀行までもが倒産した時代だった。

社長就任、倒産、自殺未遂

売り上げが激減して会社の資産の目減りが目に余るころ、山田さんは会長の長女の持ち分の会社の株を半ば押し付けられ、実質上のオーナー社長となる。「あのときしっかり断って会社を閉めればよかったのだが、従業員もいたし、世話になった先代社長の人柄も良く知っていてそれができなかった。だから兄弟や妻や長男のお金までかき集めて無理したのがいけなかった。まもなく会社の売り上げは落ちる、負債は増える、個人的な借金はある、三重苦だった」とふり返る。

それからというものやめるにやめられず死に物狂いで資金繰りの毎日を過ごすが、とうとう平成13年4月20日に不渡りを出し、山田さんは雲隠れすることになる。僅かな金を持って関東に逃げ、あてもなく水戸の偕楽園を見学したりして過ごすが気持ちは塞ぎこむばかり。そのころ自宅には取引先からの電話がひっきりなしに掛かって大変だった。家族も山田さんの行方を案じていた。とうとう20日目に、群馬県沼田市のスーパーで包丁を買い、赤城の山中に車を留めてそれを首に当てた。以前営業で歩いた東北で、同様にして死んだ人を見たのが頭にあったのだ。しかし、実際やってみたら痛くてとてもブスリとはいかなかった。今日こそは、と朝8時から車内で悶々としていた午後3時、次男からの携帯電話が鳴った。「親父、死ぬな! 俺に結婚したい人がいるんだ。だから生きていてくれ」と言われて、ハッと我に返り思いとどまった。そのときの傷が今も首に残る。自宅に戻り10日後、不渡りを出してちょうど1ヵ月後の5月20日、正式に会社の倒産整理に入った。

支えられて今に

幸いなことに不渡りを出して雲隠れしてからも心配してくれた大口の納入先から支払いがあり、従業員にわずかでも退職金を出すことができた。苦しくても給料は払い続けてきただけに、迷惑はかけずにすんだ。取引先のメーカーは負債の帳消しに応じてくれた。どんなときでも先代社長の指示通り手形割引でサラ金など町金を使わず、兄弟や妻の実家の世話になったので、無理な取立てもなかった。A銀行には負債を無くしていたので、そこから長男名義で融資がなり自宅を競売に掛けられることも免れた。弁護士の適切な助言で年金が当てになることがわかり、自己破産を申請した。いまは派遣会社の紹介する仕事に就いて、その収入と年金を合わせて迷惑を掛けた親族に返済している。あと2年余りでその目処もつく。「あのとき次男からの電話がなければ今生きてはいなかった。つくづく生きていて良かったと思う」と。その次男には長男に続いて二人の子供も生まれた。

こうした話を私が聞いたのは、妙光寺の行事に山田さんが当番の一人としてお手伝いくださり、慰労会の席でかなりお酒が進んでからのときだった。「お寺がきれいに整備されて本当に喜んでいます。もっともっと協力したいんだけど実は・・・」と言う話から始まった。「10年前本堂建て替えのときの寄付金はとても辛かった。でも最悪のときではなかったから平均額を4年間に分けてさせてもらったけど、その後大変でした。なんとかなって今こうしてお話できることを喜んでいます。この前住職が家に来てくれたときお話しよう思ったけど丁度風邪引いてましてね。私は住職もお寺も大好きなんです」と語り、さらにこんな話もされた。

家族・・・

山田さんの父親は戦時中陸軍大尉だった。そんな経歴から戦後は村の助役を勤めた名望家だったが、芸者を妾に囲って駅前に小料理屋を出させて家に戻らないことがあった。その店を兄に連れられて偵察に行った幼い頃の事も覚えている。やがて田んぼを二反売って芸者と縁を切った。そのころ辛かったせいか母親が日蓮系の新興宗教に勧誘され信仰していた。ある日、その新興宗教の幹部数人がやってきて、戻った父親も負い目があったのか同席するところで正式に入信することを決め、幹部が仏壇を鉈で二つに割ることになった。一部始終を見ていた当時中学生の山田さんが、同じ「南無妙法蓮華経」を唱えるのならなぜそんなことまでするのかという疑問があったのか「やめろ!」とわめいた。幹部の態度がとても横柄だったのも大きな理由だった。「この家には反対者が一人いる」幹部の言葉をきっかけに、父親が「そうだ、やはりやめよう」と言い、入信には至らなかった。それ以来なのか、妙光寺にはことのほか愛着が強いという。父親が先代住職と同級生だったと聞かされていたこともあるかもしれないとも。

いま同居する長男夫婦も仕事を持ち、働きに出るようになった奥さんも明るい人柄からか自動車販売会社で即採用され、この不況下で優秀なセールスレディとして何度も社内表彰されている。山田さんの従兄弟の次男が埼玉に住み知らずに安穏廟を求め、後でその話を聞いた従兄弟も妙光寺の檀徒になり昨年亡くなった。生前「俺もお前さんと同じ妙光寺になったぞ」と山田さんに嬉しそうに話してくれた。単なる偶然には思えない縁を感じるという。

穢土の修行

『極楽百年の修行は穢土一日の功徳に及ばず』日蓮聖人『報恩抄』のお言葉。極楽のようにすべてが満ち足りて条件のそろったぬくぬくとした環境の中で積む百年の修行より、私たちの暮らす、苦難が多く悪条件の重なった生きていくのに辛いこの穢れた世の中で積む、そのたった一日の修行の功徳(ご利益)の方が遥かに大きいという意味です。

家族と支えあい、どんな逆境でも誠実に人と接する山田さんの生き方が、命という何ものにも代えがたい功徳をいただいたように思います。

(親戚に迷惑をかけたのでと、ご本人の希望で仮名にしました)

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