年の瀬を迎え今年の印象深い話のひとつ。春先のある日、学生時代にお世話になった先輩Kさんの奥さんから突然の電話があった。岐阜に住んでいることを年賀状で知っている程度の、30年以上ご無沙汰の関係である。それでも印刷の年賀状にいつも「元気か?」とぶっきらぼうに書き添えられた言葉が、飾らない男っぽいあの頃の性格をしのばせるに十分だった。
私は大学3年の2月に先代住職である父が亡くなり、悩んだ末に妙光寺を継ぐ決心をした。卒業して寺に入るためには住職になる資格を得る必要がある。沙弥(しゃみ)といっていわば半人前の僧侶としての資格は小学生のときに取らされていたから、あとは大学での単位修得と本山での修行が要る。それまでは仏教系の大学で社会学を専攻して教員資格も視野に入れていたので、そちらも卒業したいしこうなると仏教学部の授業も増える。さらに夏休みは身延山での修行とその前に教員免許のための教育実習があって、あの1年間は就職活動こそなかったものの普通の4年生の3倍は忙しかった。仏教の授業は夜間部まで取らないと間に合わず、曜日によっては朝から夜の9時まで大学にいた。遅くなっての一人の夕食や、日中の空き時間に話し相手になってくれたのが、社会学の研究室で助手を務めていたKさんだった。
Kさんは大の酒好きで、とはいうものの2人ともお金がないから遅くなった日に駅裏のごく安い立ち飲み屋でポケットの100円玉を数え、最後は1杯の酒を分け合って飲むなどしていた。ある日Kさんが「今日は金があるぞ!」と言うので安心していたら奥さんに渡された定期券代で、それが酒代になったなんて失敗は数知れない。そんなあるとき例によって飲んだ後で「小川君、頼みがある。この前の失敗を女房が許してくれないのにまた今日も飲んでしまった。悪いがこれから我が家に行って一緒に謝ってもらえないか」と言う。責任の一端を感じた私は遠い埼玉までついて行き、結局はお世話になって泊ってきた。それでも父親を亡くしたばかりで先々への不安を抱えた私にとって、早稲田の大学院を出てきた社会学の先輩の話と、ちょっと頼りないがそのおおらかな人柄に精神的に支えられたことはいまでも忘れられない。私の卒業後そんなKさんが岐阜の大学に職を得たという話は耳にしていたがその後会う機会はなく、私は年賀状にいつも「一杯ご一緒したいですね」と書き添えた。実際いつかその時を楽しみにしていた。
そこへ30数年ぶりに聞く奥さんからの電話だった。「夫が先日体調を崩し、嫌がるのを説得して病院に行かせたところ肝臓が悪く末期の状態と言われました。長年のお酒がいけなかったんです。既に意識が混濁していつまで持ってくれるか・・・。私たちは関東の出でこちらに親戚もなく、もしもの時にどうしたらいいのかご相談したくてお電話しました」。憔悴しきった奥さんの声だった。驚いた私は「私に葬式をということですか?でも岐阜は新潟から交通の便が悪く約束できないので、そのときはお近くのお寺を頼んであげます。成人されたでしょう息子さんたちともよく話し合ってください。先のことは心配しないで悔いのない看病をなさることが大事ですよ」と答えるのが精一杯だった。
その後1度電話があって、ひと月余り後「先日亡くなりました。本人はお酒を飲むと葬式はいらない、骨は近くのあの川に流せと言ってました。息子たちと相談の結果家族だけで葬式をしないで火葬しました。でも私は気持が納まらないのです。私の祖父が熱心な法華経の信者で私も少なからずその血を引いている気がします。昔住んでいた埼玉のアパートには日蓮宗のお札も貼ってあり、小川さんにお泊まりいただいたときお願いしてお経を読んでいただきましたが覚えていらっしゃらないでしょうね。できればお骨を持って妙光寺さんに伺うのでお経を読んでいただけませんか?」弱々しい声だった。「いいですよ。ただ夏はゆっくりお話も聞けないので秋にしましょう」と私は答えた。
9月のある土曜日、奥さんと3人の息子に三男のお嫁さんの5人がKさんの遺骨を抱え、約束の時間にかなり遅れて到着した。奥さんが途中の駅で体調を悪くしたという。その夜は妙光寺に泊まりじっくり話を伺った。息子たちは、父親の遺志を尊重したいけど、お母さんがどうしたいかが一番という考えにまとまった。奥さんは「どうしていいかわからない。でも夫のために戒名をお願いしたい。」と言う。私は「恩ある先輩のこととはいえ、本人が望まなかったことはどうでしょう。奥さんがそれでも戒名を希望されるなら、奥さんあなた自身の戒名も一緒につけませんか。Kさんへの供養はご自身の問題として受け止めて欲しいからです。散骨なさるかどこかにお墓を建てるか、それとも実家のお墓に入れてもらうかと言う話ですが、結論を急ぐ必要はないからしばらくじっくり考えてください。」と言って家族の席を辞した。
翌朝、さわやかな顔をした息子さんたちと憔悴した奥さんが本堂に上がり、Kさんの法要を営んだ。朝食後奥さんから「戒名の件は考えます。夫の遺骨ですが、安穏廟をお分けいただいて収めることはお願いできませんか。朝に境内を散歩して雰囲気がとても気に入りました。夫もご縁の深い小川さんのお寺なら納得するでしょう。私もいずれ岐阜を引き払い息子たちの住む東京に移ります。東京なら新潟も近いですし。」思いがけない申し出に私が戸惑ったが「結構です。とりあえず一区画確保しておきますので、ご遺骨は預かりますから再度よく考えて改めて申し込みいただきそれから納骨しましょう」と応えた。
11月、当時を知る私の指導教授N先生の80歳をお祝いするささやかな会が東京で開かれ出席した。席上、近況を語れというのでこの話をかいつまんで報告したところ、先生に「それはよかった。K君も喜んでいるよ。彼も無鉄砲な男だったから奥さんも大変だったろうなあ」と仰っていただいた。新潟に戻った翌日、奥さんから「気になっていたのですが体調が悪く延び延びになって申し訳ありません。安穏廟の申込書を送らせていただきます。そうでしたかN先生には夫が一番お世話になった忘れられない方です」と電話があった。偶然とはいえ絶妙なタイミングに、改めてあの日々を思い起こして感慨にふけってしまった。そんな今年も一年が終わろうとしている。敬愛する岩間日勇・前身延山法主様のお言葉が改めて実感された。
『逝きし人は 再び帰らず/過ぎし日々も また戻らない/流転の中に 生きる命/はかなければこそ 充実したものにし/短ければこそ 確かなものにしよう/悔いなき一生を願いつつ 逝く年の瀬に立って/生きる尊さを しみじみ思う』(前身延山法主・岩間日勇猊下著『共に生きともに栄える』より |