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戸沢法尼

2007年3月号

小川英爾

夕食後何気なく見ていたテレビで尼僧さんを取り上げる番組が始まった。二時間のスペシャル番組で、壮絶な人生を経て苦労の末尼僧となり、悩める人の相談に乗ったり救ったりしている、そんな尼僧さん五人が出てくるという。もしかして、と思って関心を持って見ているとやはり、戸沢宗充法尼が出てきた。最近新聞やテレビによく取り上げられるので、ご覧になった方もあると思う。
  戸沢法尼は毎年8月1日妙光寺のお墓参りのお手伝いにきているから、ご存知の方も多いと思う。先代住職の時代からだから40年近くになる。皆さんのお墓でお経を上げるようになったのは、46歳で尼僧になってからのことで23年前からということになる。そう、今年69歳。
  その戸沢法尼と妙光寺のご縁を、平成18年11月16日仏教ホスピスの会での講演をまとめた、同会々報『みちしるべ』からの引用でお伝えしたい。
  法尼は小学3年のとき母子3人満州で終戦を迎え、翌年9月に命からがら痩せこけて引き揚げてきた。抑留されていた父親も5年後に帰国、一家4人貧しいながらも幸せな娘時代を過ごす。やがて知り合った男性がクリスチャンだったことから、自分も洗礼を受けて入信し敬虔な信者として毎週教会にも通った。
  長男が小学校1年のときに次男が生まれた。その2日目、「また来るよ」と手を振って病室から出て行った夫が、交通事故に遭い二度と戻らなかった。急いで家に帰ったが葬式は済んでおり、遺骨になった夫の死を受け入れることはできなかった。教会の先生は「いまだ天国で教えを知らない人たちに伝道するため、神が必要とされたのです」と言った。
  そのとき戸沢法尼は「生まれたばかりの子を置いて、妻子を路頭に迷わせてまで神は必要とすれば天国へ呼ぶのか。神様ってなんて勝手なのだろうと思いました。そして私も天国に行こう。それには死より他ないと考えました。かと言って薬は手に入りませんし、入水しても泳いでしまうだろう。首を吊ったらどんな無残な姿になるか、それは満州で随分見てきたので絶対に嫌。電車に飛び込むしかないと一途に考え、何度ばく進してくる電車に身を投げ出そうとしたかしれません。ところがあるとき、踏み切りの向こう側に立っていた女性が私より先に飛び込んでしまい、その無残な姿を見た私は腰が抜けて動けなくなり飛び込めませんでした」
  苦しんでいたときなぜか夫の書棚あった『法華経』と『日蓮聖人のお言葉』がフッと目につき、食い入るように読んだ。やがてお寺に行き「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えるようになり、なぜか涙が出て仕方がなかった。お寺に通い続け、残された二人の子供を一所懸命育てていく、これが夫の死を無駄にしない生きかただと気がついた。
  そして縁あって日蓮宗の教団本部である、宗務院の伝道部に勤めるようになった。当時そこの部長だった私の父で妙光寺の先代住職から、ある日「戸沢さん、夏休みは何か予定はあるの?よかったら新潟に来て8月1日のお墓参りだけちょっと台所をお手伝いしてもらって、あと子供たちを海で存分に遊ばせてあげてはどう?」と誘われた。「お金が無くて子供をどこにも連れて行けないでいたとき、小川部長のお言葉がどんなにうれしかったかわかる?以来妙光寺さんに負担をかけないようにと、缶詰を買い込んで子供たちのリュックに詰めて毎年お世話になったのよー」と当時を明るく語る。その長男も僧侶になって、いま静岡で住職を勤めている。
  こうしてキリスト教信者から立派な仏教信者になった戸沢さんは、さらに多くのご縁から、世の中で迷い苦しんでいる人たちに仏様の教えを知ってもらいたいと、46歳のとき尼僧として出家した。そして布教の勉強を続けるうち、語るだけでなく尼僧として何かするべきではないのかと考えるようになった。そこで夫や恋人からの暴力で逃げ場を失っている女性が多いことを知り、その女性たちを受け入れる現代の駆け込み寺を作ることを思いつく。中世のヨーロッパにあったという「アジール」という駆け込み施設のように、林に囲まれた建物を想像していた。
  すぐにある企業が手放した温泉つきの保養所が見つかった。そのときすでに65歳。貯金も無く、融資する銀行だってあるわけがない。その年の8月、意見を求められた私は無謀だからやめたほうがいいと強く説得、お酒も入って激しい言い合いになったことを記憶している。しかし数ヵ月後、趣意書と親しい住職たちに宛てた資金協力を依頼する文書が私のもとにも届いた。強く反対した手前ほうってもおけず、僅かなポケットマネーを出させていただいた。
  岩も通す一念はとうとう融資してもいいという銀行を見つけた。係りの女性行員は「お坊さんってゴルフ焼けしてベンツに乗っているのが私のイメージです。そのお歳で経営もなりたたないことに、何故1500万円も借金までしてまでなさるのですか?」と聞いてきたという。後日、戸沢さんが熱い思いを綴った新聞や雑誌の記事を読んだ部長から「感動しました。融資しましょう」と言ってきた。かくして平成15年8月、改修工事を終えて開堂供養にこぎつけた。
  しかし開堂したからといって宣伝して人を集める趣旨のものではない。誰も来なくて一人で管理している状態が続いた。そんなとき私のところに、親しくしている読売新聞のデスクから「一人で頑張る各界の人を特集するのですが、お坊さんでそんな方を紹介して欲しい」と言ってきた。すぐに本人の同意を得て戸沢法尼を紹介したところ、早速記者が連絡を取って現地へ取材に駆けつけた。力のある若い女性記者だったことも幸いして、戸沢法尼の活動にすっかり感銘し、平成17年7月連載記事の第1回目に紹介された。連載の1回目は読者を引き付けるために特に扱いが大きく、写真も記事も特大になる。
  これを機に、以降テレビ、ラジオ、雑誌に取り上げられることになり、毎日「行っていいですか」と電話がかかるようになった。これまでの3年で450人ぐらいの方たちが来ては去りしていった。ある大学の先生からの手紙に「死に人に線香を手向けることも大切ですが、現に生きている人々に希望と安心というロウソクの光を差し向けることのほうが、より大きな行為であることを教えられました」とあり、本当に力づけられたという。
  駆け込んでくる人たちが受けている暴力は、私たちの想像をはるかに超える凄まじさだという。女性の殆どは左の鼓膜が破れている。右手で殴られるからだそうだ。それでも何故逃げないのか。それは恐怖で動けないからだと。また、逃げて来ても必ず帰っていく。何故か。その男性たちが優しいから。それを思い出し、私がいたらなかったから、私がちゃんとしてやれば彼は暴力をふるわなかったに違いない、と思い出して帰っていく。
  「殺されるかもしれないから絶対に帰っては駄目、と言っても帰る。そしてもっとひどい暴力を受ける。優しくしたり殴ったり、この繰り返しが特徴です。そして私がいけないから、と。そうではないのです。私がいけないのではなく、暴力がいけないのです。暴力を受けるのを我慢することは自己を否定することになります。その結果、殆どがうつ病になっております。」
  「夫や恋人だけでなく子供からの暴力もあります。あるとき、76歳の老夫婦が大分県から来ました。『いつ行こう、いつ行こうと思って1年が過ぎました』と、ボロボロになった前述の読売新聞を握りしめていました。35歳の息子が明日50万円用意しろといって暴力をふるうので逃げてきたという話でした。」
  「ある編集者が私を取材して、最後に言いました。『うつ病は薬では治りません。カウンセリングでも治りません。こういう所が必要だということを知りました。私の妻は3年前にうつ病で自殺しました。病院を転々として、カウンセリングもいろいろ受けたけれども治らなかった。3年前にここを知っていたら妻は死ななくてもすんだのに』と泣いていました。
  この言葉を聞いたとき、これをやって良かったと強く思いました。至らないながらもひとりの仏教者として、今、生きている人たちの苦を見つめて生きていける喜びを感じました。
  御仏は『この世の苦を見つめて生きよ』とおっしゃいました。来年は70歳になりますが、こうやって元気で過ごさせていただくのも御仏の御心に適ったことかなぁ、仏様がここにいて助けてくださるという強い信仰が、こういうことをさせていただいているのだろうとつくづく思います。」
  以前にもあったが、近いうちにまた戸沢法尼に直接語っていただく機会を妙光寺で作りたいと思っている。

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