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過去帳と年忌札

2006年12月号

小川英爾

今年も暮れがやってきた。妙光寺の年末は檀信徒宅に伺い、来年のお守り札を一軒ごとに届けてお経を読む「お札配り」が忙しい。日が短いうえに天気が悪いと三時過ぎには暗くなり始めるし、ことに農家の仏間はどこも冷え冷えしていて、お経の後つい暖をとり温かいお茶をいただいて話し込むから日に12〜13件しか回れない。

本堂を建替えた5年前からは、来年法事の当たるお宅に「婆ちゃんの7回忌」といったお知らせをする「年忌札」も直接届けている。故人の戒名と名前、それに命日と享年が記されていて、以前は本堂隣の祖師堂の長押(なげし)に年代の古い順から糊で貼り付けていた。それをお正月のお参りに来た方が、自分の家のぶんを剥ぎ取り、住職と法事の日取りを決める慣わしだった。新しい祖師堂にその場所がないことと、年内から手元にあれば来年の心積もりもできるだろうと考えて配ることにした。

この年忌札を書き出す元の台帳を「過去帳」といって、年代別に故人の戒名、命日等が記載されている。妙光寺ではこれが5冊に別れ、最も古い戒名の記録が395年前の慶長16年、徳川家第二代将軍秀忠の時代となっている。でも記録にあるだけでも250年前の宝暦6年(1756)、2度目のに火災に遭っているので、この第一号帳がいつの時代に書き始められたものかはわからない。きちんと書かれていると思われるのが300年余り前の宝永1年くらいからで、犬公方で有名な徳川綱吉が死んだ年に当たる。赤穂四十七士が切腹したのも同じ年の2月のこと。これほど古くからの記録が残っているのだ。

ところが、来年が300回忌に当たる宝永5年には7人の戒名が記されているものの、その子孫が現存する家はそのなかでも1軒しかない。そのお宅では300回忌の法事、なさるでしょうか。同様に250回忌の宝暦8年には24人の戒名があるなかで、子孫の現存するのが3軒で、200回忌の文化5年も19人中3軒しか残っていない。さすがに100回忌の明治41年は38人中28軒の子孫が現存されるが、50回忌の昭和33年では22人中14軒しか残っていない。残りの8軒、36%の子孫は家が絶えたか転居先不明になった。元々妙光寺周辺の海岸部は出稼ぎの多い地域で、そのまま関東や北海道に流出してしまったようだ。こうしてみると代々子孫が安泰というのもなかなか大変なことがわかる。

父である先代住職の時代までは、一枚一枚手書きで過去帳からこの年忌札に書き写していた。その数200枚あまり。この大変な作業を長岡市に住む父の兄で私の叔父が毎年の暮れ、ここに泊まり込みで何日もかかってやっていた。その叔父も父に遅れること4ヶ月で他界してしまい、父の後を継いだ私は最初から困った事態になった。思案の末、過去帳から直接コピーして、これを短冊形に切って年忌札にすることを思いつき現在に至っている。

それでも一軒ごとに振り分けるなかで、一枚一枚に私が31年間葬式を勤めたそのひとりひとりを思い起こす。故人の人柄、当時の家族模様、葬儀当日のエピソード等々。過去帳をめくってみてもひとりたりとも思い出せない人はいない。1年平均20人として31年で600人を優に超す数だが、人の最期に立ち会うというのはそれほど重いことだと受け止めている。僧侶として故人を仏様の下に送り届けるという意味合いを持つ葬儀なればなおのことである。

過去帳に特徴的なことがひとつある。いまは戒名と同時に地域と個人の姓名を記入するが、古い時代には故人の名前は殆ど書かれていない。代わりに家の名前である屋号があり、妻、子、娘、倅、婆、爺という表示がされる。当主の場合はそれを意味する記号がつく。これは個人より家を単位にした考え方が主流だったからだ。そのために、先祖のルーツを調べて家系図を作りたいといって来られても、個人名が分からないからとても難しい。せめて誰それの妻とでもあればいいのだが、○○(屋号)の嫁、という記載では系図も年代と享年で推測するしかない。

明治4年に現在の戸籍制度ができる以前の江戸時代は、寺や庄屋が「宗門人別帳」という台帳で戸籍を管理していた。そこでも個人名がないのは多いらしい。もっともすべての人に苗字がつくようになったのも明治以降だから、屋号で識別するしかなかった。それにしても個人名を記載しなかったのはなぜだろう。

その一方で現代は屋号が通用しにくくなったり、屋号のないお宅が増えてきたことは別の意味で不便が生じている。個人名だけ、あるいは誰それの妻の何々というだけでは、同姓が多いからいずれどこのお宅かわからなくなってしまう。屋号があるから300年前の戒名でも全て、お宅かが分かるのだ。檀信徒宅に番号をつけて台帳で管理する、なんて必要がでてくるかもしれない。この先はことに先祖代々が続きにくいからそこまでいらないといわれそうな気もするが。

ただし檀信徒が県外も含めて増えている妙光寺では、家族の現在の様子が以前ほど見えにくくなってきている。そこでことに安穏廟でご縁を得た方には、現在の家族の様子を書いた病院のカルテのような記録をつけている。これを過去帳に対して「現在帳」と呼び、そこに相談ごとの記録を残したり、いただいた手紙を保管している、。いずれ従来の檀信徒宅にも広げたいと思っているが、その整理にも世帯番号は必要かもしれない。

今の時代でそこまでプライバシーを知られたくないと言われることも承知している。必要以上に踏み込むつもりは毛頭ないが、寺と檀信徒はなるべく親密な関係でありたいと思う。仏様の元に個人を送るという意味の葬儀なればこそ必要だし、そうでなければ僧侶としての信頼すらいただいていないことになるのではないか。こうした信頼関係をこれからも作らせてくださいと、お願いします。

逆に言えば親戚関係とか人間関係がどんどん薄まる時代だからこそ、寺に一人一人の記録があることが自分の存在の証として考えられる、そんな妙光寺を目指したいと思っている。故人の記録は確かに行政の戸籍に×印をつけられて残る。でも妙光寺の現在帳には人生の一こまが、過去帳にはその人となりを込めた戒名が、縁ある寺に残ることに、なにか温もりのようなものを感じるのは私一人の思い入れに過ぎないのだろうか。

ちろん個人情報だから管理は万全を期しているし、過去帳もその内容を一般に見せてはならないとの指導がある。妙光寺にはないが、人を差別する用語が戒名に使われていたり、興信所の調査に利用されたりする例もあるとのことで。

年の暮れになると、その年1年間に亡くなられた新しい戒名を過去帳に記載し、一周忌のご案内の準備をする。そのたびにこの1年を振り返りつつ、文字通りひとりひとりを偲び、そして残された家族に思いをはせる。そんなお付き合いを31年間続けてこれたことを、ありがたく思っている。ましてそれが300年以上の歴史がこもる、茶色に変色した5冊の過去帳になっているから歴史の重みを深く感じる。

妙光寺は正和2年、1313年に創立されたと記録があり、年が明けると2013年の創立以来700年を迎える年まであと6年となる。

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