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最期の準備

2006年7月号

小川英爾

 瀬戸内寂聴さんの書かれたもののなかにこんな話しがあった。

『多くの優しい家族に見守られ、わが家の座敷で死んでいった知人の臨終に私はたちあったことがある。長い癌との闘病生活の終わりだった。私は病人の手をとって、
「こんなにやさしい家族によくされて、幸せな生涯でしたね」
と言った。それはもう聞こえていないかもしれないと思う病人に対して、私の独りごとに似たつぶやきであった。すると病人がかっと目を開き、涙を両眼にもりあがらせ、
「だから・・・・・こんなやさしい者たちと別れて、私一人があの世に行かねばならないのがつらいんです」
と言った。私は握った病人の手を取り落としそうになった。聡明な忍耐強い病人で、病中も家族をいたわり、自分に奉仕してくれるすべての人に感謝のことばを忘れない人であった。浄土真宗の寺の檀徒で、毎朝、仏壇の前で名号を唱えていた。
誰も死にたくないないのだとその人の死を見送ってつくづく思った。』 
(『死の準備と死後の世界』大法輪閣)

 死について語られることが多くなった。最近の病院では不治の患者に対して、医者が本人に包み隠さず告知する傾向だと聞く。子供たちと別居の老夫婦で妻に先立たれて一人暮らしの夫が、医者に癌を告知され、ショックを受けて自らの命を絶った葬儀が以前あった。このとき告知には十分な配慮が必要と痛感させられた。いま一般にホスピスと呼ぶ緩和ケア病棟が増えている。治る見込みの無い病人に対して積極的な治療をせず、痛みをとって苦痛なく最期を迎えられる施設のことだ。見舞いなどでその幾つかを見たことがあるが、ここなら自分でも入りたいと思う所、ここはどうもと思う所があった。その最終的な理想はやはり、自宅で家族と過ごして迎える最期だと思う。
 以前に新潟県内のホスピスで患者を支援するボランティア団体から講演を頼まれ、恥ずかしい話しをしたことがある。意外にも先日「好評だったのでまた2回目を」と言われたが、その後の経験も少なく、頭で考えただけの話しはしたくないので先に延ばしていただいた。私自身、死は怖いしなかなか現実感をもって考えることは正直難しい。
 先の本で瀬戸内寂聴さんは『私は出家以前から、あまり死が怖くなかった。これはもう生まれつきの性格によるものだとしか思えない。幽霊は人並みに怖いし、人間の体が傷つけられたり殺される場面は、たとえそれが映画やテレビの場面でもこの年になってさえ怖くて逃げだすのだ。・・・それなのに自分の死はどう考えても恐怖をともなわない。なぜかわからない。』と書いている。妻のなぎさも、死に対する恐怖感はないという。なかなか肝が座っている。あるときそんな話しが出て、「奥さんと住職を交代したらいいんじゃないの」と檀徒の方に言われた。
 自分の死の受け止め方はひとり一人違う。男性のAさんは五年前に胃がんの手術を受けた。以来再発の不安を抱きながら人一倍運動を続け、健康に気をつけ夫婦二人で飲食店を続けてきた。しかし一方で、ときとして恐怖心があったのだろう、妻が心配するほど酒を飲み、定期健診も途絶えることがしばしばだった。
 かくして五年後、肺にかなり進行した状態で転移が見つかり、手の施しようがなかった。妻は医者に告知はしないで欲しいと伝え、夫には「一緒に頑張ろう」と励まし、自身も看病と店の仕事を寝ずに勤めた。
 しかし病状は悪くなる一方で、Aさんは医者に「この薬で治るのか?」と問い詰め、医者は「これが効かなければ別の薬にします」というむなしいやりとりが続くなかで、最期を迎えてしまった。66歳だった。「苦しむ本人に本当のことは言えず、 私は朝の四時から店の仕込をして、熱が出たと連絡を受けては病院に走り、父ちゃん頑張ろうと口では言うものの・・・。本当に辛かった」と語り、葬儀の場で憔悴しきった妻の姿が印象的だった。
同じころ、3年前に肝臓癌を告知された女性のBさんが、69才で逝かれた。この間入退院を繰り返しつつも、徐々に弱っていく姿に家族も近所の人たちも心を痛めていた。「若いころは忙しいばかりだったけど、この歳になってようやくお寺参りができる余裕ができて喜んでいたのに、それも叶わないのが寂しい」そんな本人の言葉が私の耳にも届いた。
 亡くなったという知らせでお宅に伺い、葬儀の打ち合わせの席で家族からこんな話しを聞かされた。「イヤー、婆ちゃんは葬式のことを自分で決めていったよ。葬式の知らせをする人の名簿を全部指示したんだ。それと式場はお寺の本堂がいい、御前様に頼んでくれ。さらにもうひとつ、病院から(遺体で)家に戻ったら、寝かせてもらいたい布団を用意してある、って言うんだ。どこにあるんだって聞いたら、土蔵の中に嫁に来たとき持ってきた布団があって、あれの綿を打ち直してポンポンにしてあるから、それを頼むって。今にして思えば、ここまで準備してもらって家族としてはホントありがたい」と。
この話しには後日談がある。「そんないい布団を死んだ人に使うなんて、もったいないんじゃないの」と言う声が、本気か冗談かわからないが親戚からあったという。「でも、本人の意向だから」で、家族はかわすことができ、事なきを得た。
 以前に読んだ本に、ある医者の研究を紹介する話があった。細部は忘れたが、人に不治の病を告知すると次の過程を経て、最後は必ず自分の死を受け入れられという。告知をされた患者はまずショックを受けて落ち込む。次に何かの間違いだ、医者の誤診だと事実を受け止めようとしない。やがて間違いないと事実を受け止めると、次は奇跡を願い、治してくれたら寄付をするといった具合に、神仏と取引をしようとする。そしてそれも叶わないとわかったときに、自身の死を受け入れることができるようになるのだそうだ。
 問題はここまでに到達する時間に個人差があって、若いときから人のために苦労してきた人生だった人と、信仰心を持つ人、ことに女性は一般的に早い。ところが地位や名誉にこだわる傾向の人、人の裏をかくような職業に着いてきた人(例えば、は省略する)、一般的には男性が時間がかかり、死を受け入れる気持ちにいたる前に現実の死を迎えてしまう例もある、とあった。これを読んだのは随分前のことで、時代とともに人の心も変り必ずしも正しいとは言いきれないとは思うが、如何?
 『人の命は無常で、吐く息は吸い込む息を待つ間もないくらいであり、風が吹く前の朝露のように、いつ散ってしまうかわからないくらいはかないものです。賢い人もそうでない人も、老人も若い人も、すべてがいつ死を迎えるか決まりのないことです。ならばまず自身の最期のことをわきまえて、その後に他のことを考えるべきです。(妙法尼御前御返事)』とは、日蓮聖人の遺された言葉。
 確かに私たち全員が百%の死亡率のなかで毎日を過ごしているのに、健康なときは考えないで過ごしている。それがどこか体の具合が悪くなったり、身近な人の病気や死に接して急に考え始める。健康なときこそ考えたり家族と話したりすることが、また日常の充実に繋がり、いざというときに早く受け入れられる心を持てるわけだ。
 瀬戸内寂聴さんは『出家して以来は、いつのまにか、信は任すなりという考え方が身についてしまって、じたばたするより、お任せしようと思い込み、死ぬまで元気でいられるようにと願っているだけである。・・・・私は出家とは生きながら死ぬことだと考えている。私はもはや死者なのだから死の準備は不必要なのである。』出家者(僧侶)はこうあらねばならないと、自分自身に言い聞かせた次第。
 ここまで書いて、Bさんの四十九日忌の法要の席でさらに後日談を聞いた。葬儀の後、幼いころからBさんを可愛がっていた、今はアメリカに暮らす事情を知らない叔父さんから「何か変ったことがあったんじゃないか」と、電話があったそうだ。「○○(Bさん)はアメリカまで挨拶に行ったんだねえ」と、誰かが言った。しみじみとした、いい四十九日忌だった。

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