今は少し離れた町の寺に移られたが数年前まで近い寺の住職で、私が二十二歳で妙光寺に入って右も左も分からないときに支えてくれた先輩がいる。この方と久しぶりにゆっくり飲む機会があり、あらめて住職就任丸三十年が過ぎたことを思い出して昔話に花が咲いた。先輩住職はこの日人間ドックだったのだが、日ごろの飲みすぎで悪い検査結果の出るのが心配になり、前々日にわざわざ別の医院で同じ検査を受けて安心してからドックに臨んだという、大柄な見かけによらない気が小さくて優しい性格の方なのだ。こうした人たちのおかげでやってこれた三十年間を、心に残る数々の言葉で思い起こしてみたい。
信頼
「あんたがうちの大事な御前様にあんまり酒を飲ませるから盲腸になったんだ」。結婚する前この先輩住職によく飲みつれて行ってもらい帰れずに泊めてもらった。分からないことを教えてもらい、愚痴を聞いてもらっていたのだが、そこで深夜絶えられない腹痛を感じ、近所の救急病院で盲腸炎だから入院して明日手術となった。寺を留守にできない母の代わりに着替えを持ってきた檀家でいつもお世話になっていた婆ちゃんの言葉。この婆ちゃんの連れ合いは酒嫌いの生真面目な人で、酒と盲腸は関係ないのに本気で私の身体を気遣う気持ちが伝わって、先輩も大きな体を小さくしていた。
「弟の英爾がお父さんの跡を継いで妙光寺の住職になったから、お兄さんもお姉さんもこうして生まれ育った所に帰ってくることができるんでしょ。もっと優しくしたらどうです」。私は次男の末っ子で、兄姉たちからは我が儘な弟といつも見られていた。住職になっても帰省した兄姉にいつも小言を言われていて、たまたま法事の手伝いに来ていた先輩住職が言い返せない私に代わって反論した言葉。
「小川君、カメラ持って来たかい?」。客殿の建替え工事で寄付金のお願いに檀家回りをし、当時はどうしても酒を勧められるから無理がたたって血を吐いた。心配した仙台の兄が親友の医者に相談し、そこへ検査を受けに行って先生に言われた。「検査はするけど多分心労による一過性のものだよ。ここには伊豆沼という渡り鳥の多さで全国的に知られた所があるんだ。確か写真が趣味だったよね、みんな忘れて少しのんびりしていきな」。肩から力がスーと抜けた気がした。
「いやー、今日は海で魚がたくさん採れたからお寺にも分けようと思って持ってきたけど誰もいないじゃないか。台所に置いてくつもりで勝手上がって、どうせすぐに戻ると思ったからついでに一杯ご馳走になってたよ。でもこの酒なんか変だぞ」。近頃は物騒で鍵をかけずに留守にできないが、以前はこんなふうに誰でも入れた。檀家で漁師のおじさんもその調子で、食卓の漬物をつまんで飲んでた酒は好きな日本酒でなく焼酎だったのだ。「そうかどうりで辛いばっかりで旨みがねえわけだ」と。
「御前様、あんたがいつまでも飲んでるから手伝いのおなご衆がお斎を食べらんねえよ」。自宅する法事でお経の後はお斎の席で、お酒をいただく。田舎のことで飲んべえの多い親戚に混じって勧められるまま調子に乗って上座で飲んでいたとき、ここの婆ちゃんに叱られた。この席が片付いてからお手伝いの女性たちのお斎にするのが慣わしで、いくら座が盛り上がってもお手伝いの人への配慮を忘れてはいけないと教えられた。
「心配すんなて。私が段取りもつけるし、できるだけ手伝うから」。毎年四月の「ご判様」という大祭は一泊二日で五回の食事を、毎回百人分以上全て手作りしていた。長年母と檀家のベテランの婆ちゃん二人で采配してきたが、私の結婚を期に高齢のふたりがやる気を失くして二十台で経験の無い妻にその重責が一気にかかってきた。思い余ってある夜、私と妻は時々手伝ってくれていた近所の世話人の奥さんを訪ね相談を持ちかけたのだった。大祭でこの夫婦は境内に参拝客相手の茶店を開いていて、奥さんも店を離れられないくらい忙しいのをこちらが忘れていたくらい私も追い詰められていた。そんなときの優しく心強い言葉は嬉しかった。
結婚といえば三十過ぎて独身だった私は、その当時境内の掃除等を手伝ってくれていたた亡き父の姉がいた。いつも寡黙で毅然としていた七十過ぎの叔母さんにある日「なぜお嫁さん貰わないのか」と厳しく問い詰められた。私は「寺の仕事が手一杯での身では結婚しても相手への責任が取れないから、目鼻がつくまでと考えている」と答えた。それに対し「よくわかりました。御前様がそこまできちんとお考えなら私はもう申し上げません。できるだけお手伝いしますから、頑張ってください」。その静かな口調が胸に響いた。
護持
「この寺の廊下を歩くと半日で白足袋の裏が黒くなるね」。建替え前の客殿は二百年前の茅葺だったから、行事の前どんなに丁寧に掃除してもひと風吹くと屋根裏のススが落ち、戸の隙間からはほこりが入る。手伝いに来た他の住職の何気ないひと言とはいえ、辛かった。
「だいたいこんな低地にお寺が建ってることが問題なんだ。排水で困るなら境内に土を入れて高くすればいいじゃないか」。建てた当初は高台で海が見えたと伝わっている妙光寺だが、二百年余りの間に砂防林や道路整備で周囲が高くなってしまった。そのため先代住職のころから四、五年に一度は床上浸水するするほど裏山からの水に悩まされてきた。行政に陳情しても「お寺一軒の被害くらいでは」との言葉の次に出てきた役人の言葉。
それが「ひとり言だから気にするなよ。妙光寺さんが長年水害に困ってきているのに、今度の町の計画ではさらに境内の排水が悪くなるぞ。正式に決まる前に早く変更させないとまずいよなあ」。たまたま町役場から上がってきた書類を担当した県庁の職員が、いつも妙光寺の排水を心配する世話人のお店で漏らしてくれた。この件を突破口に行政と折衝し、本格的な海までの排水路工事が決まった。
ところが水路の用地提供に同意しない人がでてきた。一向に進展しない話を案じた檀家総代の婆ちゃんが「隣がうちの土地だから、先方と土地を交換してそこを水路に提供したらどうだろう」とユニークな案を出してくれた。そこまで周囲が熱心になったことと、町職員や区長の一所懸命な説得が講じて同意を得るにいたり、懸案の排水問題は解決することができた。
「本堂建替え工事の寄付金持って来たよ。約束した金額の倍にしたからね。でも分家のうちが本家より多く出したのを知られるとまずいから内緒だよ。せっかくやるんだからいい本堂を建ててね」。こんなありがたい話が何軒かあり、そのこともあって回廊に掲示した寄付者芳名額は寄付金額を書かないことに決めた。
「御前様が言うとおり、これからの時代子供が減ったり家の跡を継がなかったりして檀家は減る一方だよ。寺を護って行くには新しいこともやらんばねえぞ。それにこの墓は世の中の人助けだよ。やるんならきちんと責任の取れることしんばねえ。世話人皆が保証人になって銀行から金借りて真剣にやろう」。こうして安穏廟が世話人会議の席で決まり、十七年前に始まった。
「新しい本堂の本堂の仏様を変える?。馴染んできた仏様だけど粗末にするわけでないし、安穏廟で新しい人たちも沢山増えたんだから、わかりやすいお釈迦様になるのはこれからの若い人たちにもいいんじゃないの。俺は賛成だな」。本堂工事の地区別檀家説明会で私と同年代の男性。
信心
「御前様、無理するなね。オラが死んだときにはあんたに葬式出してもらって、あの世の仏様の所へ送ってもらうんだから元気でいてもらわんばねえんだよ」。私が風邪を引いて受診した病院の待合室で会った檀家の婆ちゃん。
「仏様にお供えしようと思って今日の持斎(じさい)のために炊いた、うちで一番いい田んぼのコシヒカリだ。いくら酒いっぱい飲んだからってこのご飯は食べていってもらわんばねえ」。すっかり廃れてしまったが、以前は持斎といって年回忌が当たらない年のおもに秋、先祖のミニ法事をした農家が多かった。わずかな親戚と私が自宅に招かれ、手作りの野菜料理と新米が美味しかった。
「あーあ、本山のお寺参りはいいことだが、オラが若いころは働くばっかりでとてもそんな余裕なんかなかった」。幼いころの小児麻痺で片足が不自由ながらも畑仕事を生涯こなした働き者の婆ちゃんがいる。たっての希望で身延山の団体参拝に参加し、皆の心配をよそに徒歩で登る標高二千メートルの七面山にも挑戦した。狭い山道で下から掛け声も勇ましく登ってきた新興宗教の青年部の団体を、脇によけてやり過ごすとき曲がった腰を伸ばしながらの言葉には重みがあった。
電話が鳴った。「すみません、今朝早くお邪魔した者です。ありがとうございました。仏様にお参りしてご住職の話を聞いて気持ちがはれました。もういっぺん頑張ってみることにします」。ある日の早朝、見知らぬ男が訪ねてきて、県外から婿に来たがうまくいかず実家にも戻れないので死のうと思ってきた。その前に誰かに聞いて欲しいと言うので、お茶を勧めて付き合ったのだった。
来訪者もさまざまだ。憔悴しきった中年の夫婦が玄関に立っていたので、上がってもらいお茶を勧めた。「以前九州旅行をしたときキリスト教の教会はどこも扉が開いて自由に入ることができたのに、お寺はどこも閉まっています。こちらのお寺の玄関が大きく開いていたので、つい引き込まれるように入ってしまいました」と婦人が。聞けば娘さんが私生児を堕ろしたショックだというので、後日娘さんも同行して供養を営んだ。その際のご主人の「仏様の前ではどんな人も皆平等なんですね。私は仕事先で常に上下関係があってそんなふうにしか人を見なくなってしまってます。気持ちがすごく落ち着きました」の言葉も印象深いものだった。差し出された名刺に一流企業の立派な肩書きが書いてあった。
困難
町内に産業廃棄物の処理場建設問題が起きたことがある。進め方も強引でその危険性を裏付けるかのようだった。親しい友人と反対運動を計画しているときに身辺の危険も噂された。そのとき妻に「坊さんでしょ、命が惜しいなって思っていないでしょうね。後の家族のことは心配しなくていいからね」と見透かされた。その後のかかってきた電話で「誰が反対運動をやってるかと思ったら角田の坊主だそうじゃないか。寺のひとつやふたつ火をつけるのはわけないんだ。相手がそう言ってるから御前様やめてくれ」とある方からいわれ、表に立てなくなった、恥ずかしい話。
はからずもある団体から、次回の町長選挙に立ってくれ組織を挙げて応援するから、と言われたことがある。その任ではないし、政治の世界に関心はなく妙光寺の状況も大変だったので丁重にお断りした。しかしどこからともなく噂が流れたらしく「御前様がそんな一党一派に関わるような選挙に出てもらっては困る。そんなことしたら寺への協力はできない」という電話をもらった。いまでは時効の笑い話。
噂と言えば「妙光寺の住職は外で立派な説教や講演したりしているけど、家では若い奥さんと母親をいじめてるんだって」と広まっていると聞いた。痴呆になった母の外出先での話が元らしかった。同じころ兄姉からも親戚からも「世話が不十分」と言われ、まさに四面楚歌。他人には正常に見えても同居している家族は大変なのに、幼い四人の娘は手がかかり、寺も忙しかった。今でこそこの病気の理解が進んでいるが、当時は同居して介護する家族が悪く言われることが多く、同じ悩みを持つ痴呆症患者を抱える家族の会にも出席した。このころほど家族とは一体何かを考えたことはない。大変なときはいろいろ物事を考えるときでもあるという、貴重な体験でもあった。
別れ
痴呆が進行した母は友人の尽力があって老健施設にお世話になることができた。訪問しての帰り「いつ家に帰れる?」と問われた母の言葉が耳に残って、寺に戻る道はいつも辛かった。老衰が進んでからは成長した娘たちも協力するようになって、在宅での介護の日が増えた。往診をお願いしている先生から長くないと伝えられたころのある日、法事で上京した宿にかかった深夜の妻からの電話で死を知らされた。いつも通りに夕食を妻に食べさせてもらい、「ありがとう」と言った。それまでほとんど言葉がなかったので不思議に思い、しばらく見守っていたら静かに息を引き取ったという。最後の言葉にこれまでのこだわりがふっきれたとも言ってくれた。
「御前様、婆さんをとうとう生涯飛行機に乗せてやることができなかったから、遺骨になったけど新潟までよろしく頼みます。最後だから駅までは私が抱いていってやろう」。函館に住むこの老夫婦に子供はなく、安穏廟を申し込みに電車を乗り継いでやってきたのがもう十年以上前のこと。その後の二度とも電車だった。若いころ飛行機製造の仕事に就いていたご主人なのに「あんな物が飛ぶことが変だ」と大の飛行機嫌い。私の娘たちを孫のように思ってかたびたびお菓子が送られてきた。その奥さんが亡くなって遺骨を妙光寺に届ける体力がないとのことで、私が引き取りに行き、お世話している近所の方やヘルパーさん共々函館駅に見送ってこられたときの言葉。いたわり合って過ごしてきた夫婦の関係が胸に沁みた。
不思議
「昔からこの『ご判様』に雨は降ったことが無いんだ。心配しないでいいから支度して本堂に行け。必ず晴れるから」。確かに毎年四月のこの行事はどんなに雨が降っていても、お練の行列が出るころには晴れると言われている。しかし住職になりたてのある年、激し雨降りで僧侶の袈裟や衣、それに稚児の高価な衣装を濡らすわけにいかない。おろおろする私に自信を持って言った老僧の言葉。その通りに雨は嘘のように上がり、日が差したなかで行列ができた。この三十年間雨でお練の行列ができなかったことは一度もない。
「イヤー、なんて不思議な寺ですか。ここにはオーラと言うか、特別なエネルギーが溢れていますねえ。この二年あまり全国の宗教施設を沢山取材してきたけど、これほどのお寺は珍しいですよ」。東京から取材に来た共同通信の新聞記者の最初の言葉だった。今は編集員の肩書きを持つ著書も多い人の言葉だけに、こちらの方が驚かされた。もちろん後日『神々の変容』という連載の中で紹介され、新潟日報はじめ全国の地方新聞で掲載された。古い寺はその土地の持つ気を見て建てられることが多いと何かで読んだことがあるが、妙光寺もそのひとつなのかもしれない。だからといって何でも叶うというものでなく、さらにそこに人の力が加わり続けることが大切なんだと誰かが教えてくれた。
> まだまだ他にも書ききれないありがたい言葉がいっぱいある。七百年という歴史の中のたかだか三十年でしかないが、本当に沢山の言葉と力をいただいてこの寺に育ててもらった。何よりも素朴な信仰心というか、本当に正直な気持ちのふれあいが大切なんだとつくづく思う。これからもこうした人たちの気持ちが行き交う心のこもった寺でありたいと思う。しかしいまこれまでの伝統が廃れ、人間関係が薄く、何が大切なのかが見えにくい変化の激しい時代になった。こうしたときだからこそ指針を示し、悩みを受け留め、そして人を育てることのできる寺でありたいと願っている。
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