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生きる貴さ(皆様の言葉から)

2003年12月号

小川英爾

 早いもので今年もあとわずかで暮れようとしています。この一年、皆様から沢山のいいお言葉、うれしいお便りをいただきました。朝日新聞の「天声人語」欄では月末になると“今月の言葉から”と題して、有名無名の人の心に響く言葉が紹介されます。それをまねて、皆さんからの声を一部ですが載せたいと思います。
  一番の驚きは亡くなられた横浜のTさんからの几帳面な筆書きの葉書でした。『謹啓 山主様初め皆々様ご機嫌如何にございますか。私この度安穏廟に入居させていただきます。尊い佛縁を得まして、日蓮大聖人様の側もとにむかいさせていただきます。生前は色々とお世話になりました。有り難うございました。こののちは何卒宜しくお願い申し上げます。皆々様益々のご康寿お祈り申し上げます。合掌。平成十五年四月九日没丁八十六歳―八十を超えて歩いた人のみち 吾れふりかえりて悔いはなし―』
  会社を定年後、自身は生きて帰れた戦争で、亡くなった友人知人全ての人の菩提を弔いたいと、夫婦で軽ワゴン車に寝泊まりしながらお参りしたお寺が三千ヵ寺。夫人が極度の痴呆症になってからも、不自由な足でその手を引いて、風呂もトイレにも付き添う旅を続けられました。生前に用意した葉書に、娘さんが命日と没年齢を書き加えて投函された葉書だったのです。年に二回は必ず妙光寺にお参りされた、あのお姿が目から離れません。
  妙光寺の春は八重桜が見事です。「一月に亡くなった父ですが、来年の一周忌は少し遅らせてこの季節にしてもいいものでしょうか。このきれいな花を集まってくださる親戚の皆様に、ここで眠る父と一緒に見ていただきたいものですから」というHさんは、実家の亡父のお墓参りに来た娘さん。「ぜひそうなさったら」とお答えしました。
  「東京に暮らす息子が突然に逝ってしまいました。葬式のことで・・・」と電話してこられたのは新潟市のKさん夫妻、「仕事があまりに激務だったのでしょうか、幼い孫だけを残して三十三歳の急死でした。私たちが入るつもりで用意したお墓だったのに、こんなことになるなんて。でも、ああ息子も妙光寺さんのあの基地に眠るんだと思ったらなにか心が救われた気持ちでした」と、四十九日の相談に見えて憔悴しきったなかに支えを見いだしたかのお顔で語られたのが印象に残りました。
  若い方と言えば、埼玉のTさんは四十七歳でした。この三年の間に両親を送られ、自身も不治の癌を宣告されたのです。入院先の病院では職員に気を使い、さらに自分の葬儀に上京する新潟の親戚が少しでも楽なようにと、外出して夫婦で駅に近い斎場とホテルの下見まで。亡くなる数日前に夫人から「あとわずかなのでその時は葬儀をお願いします」との電話を寺にいただいた。残される妻と高校二年生の一人息子には「成人させることができなかったことが悔やまれる。でも、あの世から二人を見守る自信は絶対にあるから心配しないで」と言い遺されたという。葬儀後も夫人と息子、お二人の穏やかな姿は気丈な性格だけではなく、悔いのない別れができたという思いからくるものかと感動させられました。
  長野県のI夫妻は私の著書『ひとりひとりの墓』を読まれて、安穏廟を申し込まれた方です。夫婦で癌を患い、ずっと闘病生活を続けておられる日々ですが、いつも明るく前向きなお手紙を頂戴します。もし可能なら八月のフェスティバルでお話していただきたいと思いお願いしたのですが、床を離れられない状態が続 き実現しませんでした。
  「妙光寺さんとめぐり違えましたこと、夢のようです。本当に嬉しく、ありがたく、彼も私も気持ちが安らいでおります。人は還って行く場所が決まりますと、こんなにも気持ちが軽くなって安心できるのですね。・・・そのことに驚きながら、自分の笑顔が明るくなっていることに感動します。結婚以来、病気に追われながら、自分の還って行く場所を、ずーっと胸の中で悩みながら探し続けていましたから・・・。そして『ひとりひとりの墓』に出会います。事後報告を受けた友人は「初めに見学してから、とは考えなかったの?」と。その一冊を手にしたときから、それは決まっていたんだと思います。迷うことなど何もありませんでした、なんという幸運をいただいたことでしょう・・・か。云いつくせないほどしあわせと、感動でいっぱいです。」
  フェスティバルの当日会場でIさんの代わりにこの文を読ませていただき、大病のお体でありながら「云いつくせないほどの幸せと感動でいっばい」なんて言える生き方にグッときて、涙してしまいました。
  巻町のYさんは八月一日のお盆の法要に参列され、後日こんな葉書を下さいました。「私たち家族は引揚者で、両親は苦労して幸せ薄くこの世を去りました。姉は北海道で六十六歳の若さで病死しました。次の兄は咋年九月群馬で急死しました。妹の私を愛してくれ私も尊敬していた兄です。角田を愛し妙光寺を愛して、毎年八月一日に墓参りにくるのをどのくらい楽しみにしていたでしょうか。(中略)倒れて二日目にこの世と別れました。私は長年看護婦をして、多くの患者さんの手を握り最期のお別れをしてきました。でも兄の手を握って最期の別れができませんでした。この世があるならあの世もありますか。せめて電話でも欲しい、いいえ夢の中に出て欲しいと、どのくらい思う日が続いたことでしょう。お盆の法要に参列して心が安まる気持ちでいっぱいでした。私も最期は妙光寺で・・・と願っています。」住職として皆さんがいかにさまざまな思いで法要に参列しておられることかと、改めて感じさせられたお葉書です。十月四日、待望の四菩薩像開眼法要でした。数年前までは四月の“ご判様”行事が二日間ぶっ通しでしたから、夜の法要が八時と十時半の二回。その後引き続いて夜中十二時から朝まで、徹夜でお説教が続いたのです。今回の開眼法要が、新本堂で初めての夜の法要でした。暗闇にロウソクの明かりの中、踊りと聲明と読経は見事に噛み合って、厳かで感動的な開眼法要でした、「いやー、生きててよかったと思ったよ。こんなありがたい法要は長年お参りしてきたけど初めてだ」と言ったのは、若い頃から世話人を勤めてこられ、信仰熱心さにかけではこの人の右にでる人はないと、自他ともに認める巻町のKさん七十八歳です。やや頑固な気性だけに、口をついて出た言葉に嘘もお世辞もない正直な感想が住職としてはとても嬉しいものでした。
  同じ日に戒名をお授けする二年目の授戒会をし、二十名の方が受けられました。後日記念にお名前を刺繍した略式袈裟をお送りしたところ、東京のSさんから「大変に立派な出来栄えで、見ただけでも頭の下がる思いがいたします。妙光寺の檀信徒なればこそ此の光栄に浴することが出来たと、身にしみて一層の有り難きに身も心も奮い立つ思いで一杯です。幾許もない余命を大切にしながら、朝夕のお勤めに励みたいと存じます」という丁寧なお葉書をいただきました。
  八十七歳を迎えた角田浜生まれのSさんは、九歳で両親と死別して叔父の元で育ち職人の道を歩まれ、そして戦争に。「戦地では非道なことをした」と懴悔される実直な方です。現在夫人とともに娘さん夫婦と幸せにお暮らしです。弟さんは一時北海道の祖父に預けられ、九州の寺に引き取られて苦労の後、佐賀県で日蓮宗の住職を勤め、先頃引退されました。お二人の人生も波乱に満ち、大仰に見える文面もSさんの誠実な人柄がにじみ出て、こちらこそ頭の下がる思いです。
  いつも元気な看護婦のMさんから電話をいただきました。群馬の病院から伊豆大島の病院を経て、東京の大病院で婦長をお勤めのはず。ところが「脳動脈瘤というクモ膜下出血に至る病気になって大変だったの。でも勤務先の病院に新潟大学から来られた脳外科のすばらしい先生がおられて、命を助けていただきました。病院の仲間たちも本当によくしてくれて、つくづく自分の命が沢山の人の手で生かされているということを身をもって知りました。これまで頑張り過ぎるくらい仕事してきたけど、少し“諦めない頑張らない”で行きます。ご住職も大事にしてくださいね」と、暖かい言葉に、ホッとしたりジーンときたりしました。
  そしてこの秋ご主人の七回忌を、結婚したばかりの一人息子夫婦と本堂でお勤めした西川町のNさんからお葉書が届きました「先日は法要の儀、誠にありがとうございました。全てをお任せしてしまい、心静かに終えることができました。心に沁みるお話もいただき、これからまた前を向いて生きて参ります。ありがとうございました」。添えられた実のついた紫式部の絵に晩秋を改めて実感し、さらに文面からはしみじみとした思いをいただきました。他にも数多くのお便り、お言葉をいただき、今年も一年が終わろうとしています。各地で皆さんが一所懸命に生きておられる、そのおひとりおひとりと縁をいただき、それぞれに繋がっていることを尊く、ありがたいことと感謝しています。どうぞ良いお年をお迎えくださることをお祈り申し上げます。

『逝きし人は再び帰らず/過ぎし日々もまた戻らない/流転の中に生きるいのち/はかなけれぱこそ充実したものにし/短けれぱこそ確かなものにしよう/悔いなぎ一生を願いつつ逝く年の瀬に立って/生きる貴さをしみじみ思う』(前身延山法主、岩間温良況下著『共に生き共に栄える』より)
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