誌上法話
大いなる恵み 人の寿命は短く はかないと思っている/でも生命は久遠の昔から 永遠の未来につづき/血のつながりは 十代前で二千人以上あり/ 二十代前では二百九万人にもなる/短くはかないどころか 長く広くこの上なく大きい/大いなる天地の 恵みの中に生かされて/ 今、生きているわが身の貴さに気付くことだ
共に生き共に栄える』岩間湛良より |
2016年12月号 |
小川英爾 |
『光明』誌毎月発行34年
日蓮宗総本山身延山久遠寺第90世・岩間日勇法主(ほっす)様は、名布教師と謳われてそのお話に皆感動し涙したと言われます。言います。終戦直後の荒廃の時代、「人生には必ず活路がある」を主題に、山梨県のお寺にあって檀信徒の家庭を明るくしたいと寺報『光明』を発行しました。一度も休むことなく毎月発行された寺報の冒頭には、毎号文章が掲げられました。その一つが、上記の『大いなる天地のめぐみ』です。久遠寺法主になられて多忙となり、『光明』誌は34年目で弟子に託されました。その後、岩間法主様の文章は、本にまとめられました。次の文章は、私がお通夜の席でよくご紹介するものです。 『涙はまごころのあらわれ』生者必滅 会者定離/人として死せざるもの 一人もなし/この理を知りながら 愛別離苦に泣く/
この凡情の哀れさを 君、笑うことなかれ/泣いた涙で 無常をさとり/死をみつめて 生の貴さを知るからだ/ 泣くことは迷いでなく
涙はまごころのあらわれでもある 妙光寺先代との交流
岩間法主様は私の父である妙光寺先代と学生時代からの親友で、家族ぐるみの交際がありました。先代の7回忌法要に導師をお願いした際、以下の思い出を記念誌に書いてくださいました。「(昭和20年の)思いがけない終戦の挫折茫然自失したとき、私はたまらなく彼に会いたくなり、窓ガラスはわれ、座席は剥がされたゴトゴト列車を乗り継いで角田を訪れたことが忘れられない。何の用があったわけではないが、この傷心の極みに会いたくて会いたくてならない人こそ、本当に心許しあった真実の友であったと思う。…」
その先代の死後、卒業と同時に私は住職に就いたのですが、あるときどうにも辛くてなりませんでした。あまりのことに法主様にご相談しようと身延山に伺いました。本来なら近くに寄ることすらはばかられる総本山のトップです。それが随身(お世話係の僧)に案内されて、奥の間の自室に通されたのです。「おお、よく来た。どうだ角田は?」と、いつもの穏やかな笑顔で迎えてくださり、しかも法衣を脱ぎ着物だけの姿になられて炬燵に一緒に入ることを勧めてくださいました。溢れる慈愛を間近に感じただけで、相談事も何も全て解消し、自分で解決しようとの思いが湧いてきたのです。 法主様の最期
身延山の法主は終身です。しかし岩間法主様は任期途中に高齢で「重責に耐えず」と自ら隠退なさり、身延山病院付属の施設で過ごされました。2年後の9月「今日は気分がいいので、山内をお参りしたい」と仰り、車中から各お堂を拝して日蓮聖人のお墓に詣で、その日の夕刻過ぎ静かにご遷化(僧侶の死去)されました。98歳のご生涯でした。
この秋妙光寺のお会式(日蓮聖人ご命日法要)法話に、身延山法務部長の吉村上人をお迎えしました。吉村上人は15歳から岩間法主様の随身を勤め、大変に薫陶を頂いたそうです。「日常といい、最期のお姿といい、鑑にしないといけない宗教者でした」と話されました。
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