間近で見る数十年、ご判様から安穏廟まで −新潟の僧侶が語る妙光寺−
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2016年7月号 |
新倉理恵子 |
妙光寺の伝統行事であるお大会には、県内の僧侶の皆さんが大勢法要に出座されます。その中には、夏の「送り盆」(フェスティバル安穏)にも来て下さる方もあります。この数十年の間に、大きく変化した妙光寺を、一番近くで見てこられた県内の僧侶の方々に、お話をうかがいました。
吉田錬勝上人(67歳) 新潟市妙覚寺ご住職。 お寺は新潟市古町の古くは寺町と呼ばれた中心地にある。妙光寺開創七百年身延山法要では、元新潟東部宗務所長として、ご挨拶をいただいた。
田村憲吾上人(63歳) 新潟市法雲院ご住職。 お寺は新潟市西堀の寺町地区にある。妙光寺のお大会・お盆には、いつもお手伝いに来ていただいている。とくに「フェスティバル安穏」には平成2年の第一回から、法要責任者として一度も欠かさず出座されている唯一の僧侶である。
小田泰智上人(39歳) 長岡市和光寺ご住職。 お寺は旧寺泊地区内陸部の農村地帯にある。この十年余は、お大会・お盆など、いつも後片付けまで手伝ってくださる若手。「フェスティバル安穏」にも毎年出座している。
Q.みなさんと妙光寺とのお付き合いについて聞かせて下さい。
吉田 昭和48年(一九七三年)のご判様のお手伝いが最初でした。先代ご住職が亡くなる前の年です。お世話になった先輩僧から「角田のご判はしっかり務めなくてはならない」と言われて、前々日から泊まり込みました。そのころは境内も整備されていませんでしたから、まずは道路整備から始まって、旗立て用の竹を切ったり、たくさん仕事がありました。私もそのころは、20代でしたからね。
田村 私のところは先々代の祖父が戦争で手を悪くして、僧侶になるために妙光寺に弟子として入ったのが、ご縁の始まりです。その後、小川住職のお兄さんが中学時代に私の寺に下宿したり、いわば親戚のようなお付き合いになりました。私も、大学を出てからご判様のお手伝いをするようになり、そして「フェスティバル安穏」が始まって第一回から26年間一度も休まずお手伝いしています。
小田 私のお寺は、祖父の代からのお付き合いです。私自身も24歳くらいの時から、ずっとお手伝いさせていただいています。
Q.ご判様は盛大な行事だったそうですね?
田村 通夜説教といいまして、20人以上のお坊さんが、だいたい一時間ずつ交代で説教をするんです。それを夜通し本堂でやって、みなさん毛布を巻いて寝ながら聴いている。私みたいに若いのは、夜中の2時ごろですね。年を重ねると、いい時間帯にやれるようになるんですよ。
吉田 境内には仮設ですが茶店も出ました。夜は冷えるからお酒も出ましたね。日中は露店も並びにぎやかでした。小田さんのお祖父さんにあたる和光寺のご住職は、一日目は3時間、二日目に2時間、踊りや歌も入れて合計5時間お話されていました。寄席と同じで、変化をつけないといけませんから。
田村 皆さん寝ながら聴いているんだけど、いい話だと夜中でもちゃんと起きるんです。そこはもう、てきめんに違う。
吉田 角田のご判で説教する誇り≠ェ、とくに私の前の世代の僧侶には強くありました。立派なお話をする僧侶が、幾人もいたんです。そもそもご判様では、きちんと予習しないで話すと、聴いてもらえません。聴いている方々の熱心さ、命がけで聴いている感じがありました。そこに私たちも応える、勝負するチャンスだったのです。毎年来て店を出していた三条市の山沢数珠屋のおばあちゃんに「あんたの話は良かった」なんて褒めてもらったのは、今も忘れられません。若かった私には、本当に励みになりました。
Q.小田上人は通夜説教というのをやってみたいと思われますか?
小田 ちょうど私が新潟に戻る直前になくなった行事なので、想像するしかないのですが、いや本当に大変そうで、とてもできそうにない・・・
吉田・田村 えぇ〜、そこは「やる!」って言わないと駄目だよ!
小田 あっ・・・はい、できると思います。機会があったら、是非やらせていただきたいと思います。やります!
Q.では、以前と今の妙光寺の変化については、どう感じていますか?
田村 変化と言えば、やはり安穏廟でしょう。今まで誰もやったことのないことを、ここは全国で最初にやったわけですから。
吉田 安穏廟については、小川住職はご判とは違う方向を選ばれたわけです。日蓮宗という宗派としての仕事ではなく、寺院としての仕事ですよね。反対する僧侶も、たくさんいました。でも私はいいことだと思いましたよ。
田村 お手伝いに来るのも県外からの僧侶が多くて、そういう面でも批判があったかもしれない。でも安穏廟が始まったころから、仏教が大きく変わって来たんです。世の中が変化してきて、「いったい自分はどこのお墓に入るんだろう」と不安に思う人が増えてきた。その中で、安穏廟はいわば一般公開の寺です。そしてここでは、檀信徒が増え、信者さんが増えた。
吉田 考えてみれば、檀家さんたちは仏様とつながっているんです。我々僧侶は、それを中継ぎしている存在にすぎない。安穏廟は、その一つのやり方ですよね。こういう世界があるのだということを、全国に知らしめたわけです。
小田 とにかく安穏廟を通じて、小川住職が布教されていることは間違いがない。そして成果があがっているのは、素晴らしいことです。
田村 「フェスティバル安穏」は、みんなで創り上げる寺の行事という感じがします。そうは言っても、私も「これ、いつまでやるのかな?」と思いながら参加してきましたけどね。最初のころは毎年「今年でもう終わりだよな?」と聞いて、10年目には「これで終わりだろ?」と聞いて、そうしているうちに27年です。
小田 私は昔の本堂も知っています。今の本堂は斬新な造りで、小川住職の近代的な考え方が、建物に現れています。そして最近は、来る人が増えましたね。見たことのない人が来て、お寺を手伝うようになったと、本当に思います。
Q.お寺をめぐる世の中の状況が、確かに変わってきていますね。
吉田 「ぶっちゃけ寺」なんていうテレビ番組までできましたね。でもああいう番組を見ていると、都市部のお寺を基準にした見方があると思います。たとえば戒名料≠ネんていう考えは、新潟県内では決して一般的なものではない。
小田 戒名―法号は、少なくとも日蓮宗では、僧侶が与える責務を負っているものです。金銭に替えるものではない、と思います。
田村 離檀料≠ナ檀家をしばるなんて話も聞きます。新潟にもそういうお寺もあるのでしょうけど、私たちには考えられませんよ。
Q.これからのご自身のお寺は、どうありたいと思っていますか?
吉田 私は自分が寺にいる時は、毎朝必ずお経をあげます。朝、仏様に問いかけないで何をするのだ、と自負があります。幸い中心部に寺があるので、葬儀や墓について相談に来る方は少なからずいます。今の仏教界はいわば乱世です。そういう時にこそ周りの人を大切にして、やっていきたいと思います。
小田 私の寺は農村部ですが、なるべく誰もが来やすいお寺にしたいと思っています。いろんな方が来てくれるお寺にしていきたいですね。
田村 私の寺は塔頭寺院ですから墓地がなくて、お檀家さんは増やせません。でも、宗派関係なく様々な人と話をしていくことが大事だ、と思っています。
Q.では、これからの妙光寺についてはいかがですか?
吉田 ここは安穏廟がありますから、相当の責任があるお寺です。妙光寺は小川住職の才能でここまできました。全国に永代供養墓は多々ありますが、一見同じことをしていても安穏廟は全然違います。後のケアが違うのです。後継住職である良恵上人がどうやっていくのか、は大きな課題になります。
田村 でも行事の時の妙光寺を見ていると、檀徒さんの意気込みがすごいですね。地区ごとの当番があるようですが、率先して自分たちの役割を喜びをもってやっているところが、他のお寺と全然違います。あの方々と一緒に、良恵上人も自分のやり方をみつけていくのがいいと思いますね。
今日はどうもありがとうございました。
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