誌上法話
「人の命は無常なり。(中略)老いたるも、若きも定め無き習ひなり。 さればまず臨終のことを習ふて後に他事を習ふべし。」 (日蓮聖人『妙法尼御前御返事』) |
2015年12月号 |
小川英爾 |
【大意】
人の寿命には決まりが無い。老人も若者も、いつ命が尽きるかは定めがなく、私たち凡夫にはわからないものだ。だからこそ、とにかくまず自分の臨終(最期)のことを解決した後に、他のことを考えなさい。
日々を真剣に生きるために
日蓮聖人が生きた鎌倉時代は、平均寿命が25歳くらいだったようです。幼い死も多く、成人しても戦乱もあり飢餓もあるので、人生を全うできる人は珍しかったのかもしれません。それだけに一日一日が一層貴重なものであったはずです。
一方男女ともに平均寿命が80歳を超えた現代社会で、私たちはどれほど日々を真剣に生きているのでしょうか。長生きにはなったけど、社会が複雑化してゆとりを失ってしまい、何のために生きているのかすらわからなくなった面もあります。だからこそ、生きることの貴さを考えることが大切になってきます。
死の準備が必要な時代
終活≠ニいう言葉が、すっかり定着しました。葬儀や墓、相続、住居等の後始末に関心が高まっています。バブル期に大規模化した葬儀や墓を含めた暮らしぶりが、経済の縮小と少子高齢化、核家族化で維持できなくなったことがその背景にあります。死後のことを親族に託せない現実があるのも事実で、自分の後始末を自身で準備しなくてはならなくなりました。
一方で、昨今の終活≠熄、業活動に仕掛けられたブームの様相があります。近ごろは各地の葬儀社や石材店、さらにはスーパーのイオンまでもが終活フェア≠ニ称する催しを開き、顧客の獲得に熱心です。
この12月に東京で『エンディング見本市』なる催しがあります。葬儀関連業界の見本市と聞いたので出演を引き受けました。ところが「僧侶の日本一を決める『美坊主コンテスト』」なるものから、『ペットの終活』まであると後で知り、いま複雑な気持ちです。
ブームに流されないで
いまやこうして地域を問わず親族や人の繋がりが薄れ、業者の手を借りない訳にはいかなくなり、全てがお金の話になっています。そのとき問われるのが、自身の最期はどうありたいか、という毅然とした生き方と最期の迎え方に対する考えです。
人の生き方は、700年前の日蓮聖人の時代も、現代社会も、根本的にはさほど変わりません。寺が勧める終活≠ヘ、形よりもまず自分の人生観・死生観をしっかり持っていただきたいということです。
|