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お彼岸と生前戒名の方々

2010年3月号

小川英爾

戒名はお釈迦様に弟子入りした証ですから、生前に本人の希望でお付けするのが本来の姿で、お葬式で付けるのは間に合わせとも言えます。妙光寺では8年前から毎年の秋、戒名授与式として希望される15名前後の方におつけしています。

皆さんには喜んでいただき、前回も直後に「自分にぴったりの戒名をいただき、なんだか嬉しくて兄弟や友人にも見せて羨ましがられました。これからはまた別の人生が開けるようで、夫婦ともども感謝しています」というお手紙をいただきました。

同じ日に参加された安穏会員のMさん(男性・60代)からも、つい先ごろ「機会があったら皆さんに紹介してください」と次のようなメールが届きました。

妙光寺・戒名授与式に参加して

小春日和のよき日に、妙光寺の戒名授与式に参加させていただき、心が洗われる想いでございます。私が参加させて頂きましたのは、本年5月身体に重大な事態が進行している事実が判明致しました。急遽、精密検査、手術等々と全てを病院にお任せの毎日となってしまいました。現在は体もかなり回復し、従来からの趣味やボランティア活動等を少しずつ再開しております。

私は常日ごろは宗教心を意識したことはありませんでした。しかし、自分の周辺で発生する葬儀には参列しますし、時には神社にお参りしお願いを致します。これは平均的な日本人の姿なのではないでしょうか。思いがけず重大な病名を宣告され、闘病生活を余儀なくされた時点で考えたことは、いずれはお世話になるのであれば、早い方がよい。色々な準備を可能な限りやってしまおう。併せて、この際少しは勉強してみるのもよいか、ということでした。

授与式当日は、式の前に住職による会の趣旨と日程説明等がありました。超概略ではありましたが日蓮宗に全く知識のない私でも解りやすく、新人教育の手本とも言えるものでした。式は信者の皆様の見守りの前で厳かな雰囲気の中で執り行われ、いよいよ自身が日蓮宗の信者になったとの思いに至りました。立派な戒名をいただきました。それ以降は不思議なことに日に何度かお題目が口から出るようになったのです。不思議です。気持ちはとても落ち着いています。何の不安もありません。残された時間は気持の整理や身の周りの整理に当てたいと思います。

そうそう、お題目は車の運転席に座わった時点でも出るのです。安全運転が出来そうな気になります。それでは皆さんお題目を斉唱致しましょう。

南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経

やはり同じ日に新潟市の真島重二郎さん(70代)も生前戒名を受けられました。事前に弱った体で奥さんに付き添われて、「元気なころはバイクでお寺に来ては両親の墓参りをして、山に入って山菜取りをしたりしました。でも、この病気にかかってすっかり駄目になりました。ご前様に今後のことやら、戒名のことを相談したくて出かけてきました」と。その折りにこれまでの人生をお聞きしました。

旧西川町で農家の次男として十番目に生まれたからこの名前がついた。当時の農家はどこも貧しくて、学校になんか行かせてもらえない。そこで農家の仕事を手伝いながら、遅れて夜間の定時制高校に入学。在学中に運よく当時の国鉄・越後曾根駅に臨時人夫として採用されたのが、22、3歳のころだった。さらに一所懸命さを認められて本採用になり、県北部の坂町機関区に配属された。そのときも定時制高校村上分校に転校して学業を続け、5、6年かけて卒業した。当時は高卒の職員が少なく、数学と機械が好きだったことも幸いし、運転士としてSLから始まり、ディーゼル機関車、電気機関車、そして上越新幹線の開業にも携わった。同時に機械設備の保守にも長けていた。

定年までの33年間を過ごしたなかで、忘れることのできない事故が2回あった。一度は新潟―青森間を走る「特急白鳥」を運転中に、線路上を歩いていたお婆さんをはねてしまったこと。二度目は踏切を渡り切れなかった幼い男の子をひいてしまったことだ。この子が当時の長男と同じ3歳くらいだったことが、余計にショックだった。ところが、男の子の上を列車が通過して、車掌が抱きあげたらその子がワーと泣き出した。お婆さんのときも、背負っていたカゴと、はね飛ばされて落ちた稲刈りを終えた田圃の稲わらがクッションになって、けがひとつなかった。それでも始末書やら何やらで大変だった。

母親が信仰熱心でいつもお参りする姿をみていたので、私もお参りを欠かしたことがありません。いつも素直で感謝の気持ちで生きてきました。こうして大過なく勤め上げることができたのも、仏様と両親のおかげだと思っています」。

授与式の当日、長男に付き添われた真島さんは体調がすぐれず、横になって辛そうにしながらも、真剣に私の話を聞いてくださいました。そして年が明けて今年の1月末、「親父の容態が悪くてあと1週間ほどと先生に言われました。その節はお願いします」と、長男から電話があり、その10日後お葬式になりました。

お通夜の席、真島さんの友人はじめ多数の参列者の前で長男が思い出を語りました。「多趣味な親父でした。ボーリング、盆栽、石磨き、囲碁、詩吟、民謡、山菜取り、バイクも大好きでした。何事も突き詰める性格でした。越後線の列車の運転士をしていた頃、私が毎日夕方5時に、家の近くの寺尾駅に弁当を届けるんです。そのとき電車を降りてきてありがとうと受け取るんですが、何百人もの命を預かる姿が輝いて見え、子供心に誇らしく見えたことを記憶しています。発病して1年余り、家族で一所懸命に看病しました。私も勤務先から高速道路を使って、1時間ほどの道のりを病院に通いました。元気な人でしたが、病気になってより深く語り合えるようになった気がします。ありがとう、お陰だったと言ってくれました。またある夜、ベッドの上の私の膝枕でこんなことを言いました。生前戒名をもらったのは死ぬ準備じゃない。これから輝いて生きるためなんだ、って。いつも前向きな、そんな親父でした・・・・」。


今年の新潟は26年ぶりの大雪でことのほか厳しい冬でした。2月6日、新潟市内でも朝から猛烈な地吹雪のためにあちこちで車が視界を失い、数時間も雪に閉じ込められました。そんなさなか寺の電話が鳴りました。真島さんの長男からで「ご前様、いま高速道路の路側帯にいます。数メートル先しか見えない地吹雪のなか、50台近い車の玉突き事故で、けが人が救急車で運ばれています。私は間一髪で逃れることができたのですが、すぐ後ろにいた車が私の前の車に追突したんです。すさまじい光景です」。興奮して声がうわずっていました。そして「仏様と、死んだ親父に助けられた気がします」と。


お彼岸はお墓参りするためだけの日ではありません。感謝の気持ちを忘れることなく、自分を戒め、腹を立てず、前向きに努力すること。そのためには物事をありのままに見て、何が最も大切なことかを理解する心が大切です。こうした仏様の教えに一歩でも近づくことを心がける一週間がお彼岸です。



今日彼岸、菩提の種をまく日かな 蕪村

*今年の戒名授与式は10月3日(日)です。

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