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「安穏廟」満20年、「フェスティバル安穏」20回

2009年9月号

小川英爾


安穏法会

平成元年に開設した「安穏廟」が丸20年経過し、開設の翌年から始めた「フェスティバル安穏」が20回目を迎えました。そもそもは全国の過疎地で人口が減って寺の維持ができなくなる、そんな各地の実情を宗門の研究員として調査に歩いたことがきっかけでした。同じころ、妙光寺でも後継ぎのいない檀家から墓を誰に守ってもらうかという相談が相次ぎ、今まで寺を支えてきた「○○家」といった「家」が続かなくなり、これまでのようには寺が成り立たなくなる。家族の形や社会の変化という点でこの問題の根は一緒だと気がついたのです。

 

そもそも寺は仏教を基本に一人ひとりの生き方を支えるところ、そのための修行の場です。ところが江戸時代以降、主に葬式と法事を行い「家」のご先祖様を守るところという考え方が主流になりました。ですから墓の守り手がいない、家の後継ぎがいないことは寺の存亡にかかわる大問題になってしまうのです。

 

それなら発想を変えて寺が後継ぎを必要としない墓を作り、そこから現在の寺の問題を考え直し、本来あるべき姿を取り戻していこうと考えました。この案を、当時宗門の過疎地寺院対策委員長として提案しましたが、20年経た今でも会議ばかりで何も具体化されませんでした。そこで妙光寺の役員会議で提案したら驚くことにすぐさま賛同を得、費用の工面から行政手続き、イベント協力まで皆さん積極的に行動してくれたのです。それほどに妙光寺を案じ、思いを寄せていたことがよくわかりました。

 

安穏廟」を開設した翌平成年2年に、合同供養と生前交流を目的にした第1回のフェスティバル安穏を行いました。準備会議には若い私の友人から高齢の世話人夫婦まで60人が集まって、楽しく打ち合わせしたことがつい昨日のことのように思い出されます。あれから20年が経ち、おかげさまでこの間、妙光寺は外見も中身も大きく変わりました。ご縁の輪もさらに広がりました。しかし寺本来の姿を取り戻すという点ではまだまだ道半ばです。何が変わったか一つ一つを挙げる紙数がないので、新しいご縁の輪を、最近のエピソードのいくつかを通してご紹介します。

 

数年前のお会式に参加したYさんからの手紙。「荘厳なお会式は、私自身思うところの多い場となりました。現在中学校ほかで戦争と引き揚げの話を語り部として続けておりますが、何百人という餓死者の葬送人となって、満州奉天の駅前に佇んでいましたときから、55年間のあまりに痛い心が続き、生きてよかったのか、死を選んだほうがよかったのか。また諸々の苦痛が絡み合い手術等々ですっかり落ち込んでおりました。お参りさせていただき、お隣で接してくださる方々の優しさに心打たれて帰ってまいりました。」

 

戦前に満州へ開拓で渡った長野県の女性Yさんは、引き揚げ後に望まぬ相手との結婚とその夫の暴力に苦しみ、離婚を考えたものの二人の娘のために思いとどまったそうです。夫の死後は近くの市営霊園に埋葬したものの、自分はひとりで眠りたいと考え、妙光寺に出会いました。お元気なころは毎回のようにホテルを予約して行事に参加され、信州名物手作りの“おやき”を度々送ってくださいました。昨秋82歳で亡くなり、この5月納骨に見えたご長女からはこんなお手紙をいただきました。

 

「初めて伺うことで不安ばかりが頭の中で広がっていました。しかし素晴しい環境の中にあり、ご住職様はじめ若いお坊様、寺務の方々の優しい笑顔や対応に緊張もとれ、いつまでも居てお話していたい気持ちになっていました。/大好きな日本海の見えるお寺に安住の地を見つけた時の母はものすごくうれしかったことと思います。私は知りませんでしたが、生前にはきっと何度かお寺に伺って、ご住職様に思いの丈をお話して聞いていただいたりしていたのではないでしょうか。/納骨してしまってから、今はただただ寂しく町で背格好の似ているお年寄りを見かけると、どうしても生前の母と重なり、目で追っている時があります。もっとこうしておけば良かった、ああしておけば良かった・・・と反省ばかりです。/一人ひとりを尊重し、大切に考えて下さっているご住職様の慈愛あふれたお心に接し、思わず涙があふれてきて止めることができませんでした。/これからは母のお墓の「出会い」の言葉の意味を心にとめて、毎日を大切に生きていこう思います。安穏廟の母をどうぞよろしくお願いします。そして私たち家族にもお心をいただけますように重ねてお願い申し上げます。」

 

両親の埋葬に来られた30歳代の姉と妹。私からの「お父さんはラテン音楽が趣味と聞いてましたが明るい方でしたよね」との声掛けに「そうなんです。最後まで仲のいい夫婦でいつもペアルックでした。母亡き後も遺骨をずっと傍に置いて、自分と一緒にくっつけて埋葬してくれって言われてました。安穏廟の趣旨に感動して、妙光寺さんが大好きなんだ!ていつも私たちにも周りにも死ぬまで自慢していました。父に勧められて申し込まれた方も結構いらっしゃるはずです。それでいて葬式しないでお別れ会をと言った父でした。でも父は父、私たちもこちらがとても気に入っているので、一周忌をお願いしたいし、それぞれ家庭がありますがこちらのお世話になりたいのです」。

 

長野県のYさんのように夫と墓を別にと希望される方もそれなりにいられる。一方でAさんは離婚した夫の埋葬を希望してこられた。安穏廟は自分自身が入る方しか受付けないが、Aさんは一緒に入るという。さらに檀徒になって夫の葬儀と自身の葬儀も申し込まれた。墓碑に刻む文字の原稿を娘さんと持って来たときの話。「亡くなってみれば悪い人ではなかったように思え、ま、いいかと考えました。娘には情が湧いたんだから情″と入れたらと言われたのですが、ちょっと違うんですね。ご住職にいただいた夫の戒名にあった寛和院、心和やかにゆるすの気持ちでしょうか。ですから寛″とすることにしました。娘にとっては父親ですしね。娘も嫁いで私一人になったので生まれた東京に戻ろう思いましたが、妙光寺があまりによくて、檀徒の仲間に入れていただいたことですし、新潟で暮らすことに決めました。どうぞよろしくお願いします」。

 

こうしてご縁の輪が広がるのも安穏廟なればこそ。血縁を超えて新しい結縁の核に寺がなることも目標のひとつです。さらにそれが仏縁に繋がることを願っている日々ですが、こんなお話もいただきました。新潟市内の男性Mさんは「定年退職後に趣味で始めた料理教室が評判で最高に充実した毎日でした。ところが市の健診で悪性の胃ガンが見つかったのです。教室を知人に譲るなどやることが色々あるので手術を伸ばしてもらい、今日はご住職にぜひ葬儀をお願いしたいので檀徒の申込みに来ました。食事は旨いし自覚症状は全くなく、人生に思い残すこともありませんわ」と、手術に備えてなったという坊主頭で屈託なく笑う姿に、頭の下がる思いでした。同席の奥さんと看護師の娘さんが「確かに悪性で厳しい状況です。私たちの前で本人は気丈ですが、かえって私たちの方がつらくて・・・」と。


さまざまな人生をお聞きし、さっぱり力になれないもどかしさを感じますが、数年前のアンケートでいただいた回答を励みに、引き続き21年目に歩き出します。

 

「宗教とは無縁と思っていた私が、安穏廟と出会ってから、その考えが少々変わってきたような気がする。墓は死後のものと思っていたが、生前に私たちの思いを墓碑に刻み、しかも自然に恵まれた静かな環境の下に、近代的な墳墓を幾度となく訪れ、そして本堂に礼拝することで、私は人生の達成感、安心感、自己の証を肌で感じることができるのである。これも妙光寺(宗教)とのご縁の賜と感謝している」。

 

「葬儀法要のほかは宗教関係の行事に縁がなく、また、形式的、権威的だという先入観もあって自分から機会を求めることはあまりしなかった。しかし先般本堂の仏様の開眼法要の参観は思いがけぬ体験となった。境内を覆った霊気とでもいうか、染み入るような雰囲気の中,繰り広げられた読経、作法、説法などの深奥な迫力には、別天地へ引き込まれるように、心底魅了されてしまった。古希といわれる年齢にはなったが、これから妙光寺の催しを通して、叙々に新しい世界に触れさせていただけるものと楽しみにしている」。

 

何やら我田引水、自画自賛めいてきましたが、妙光寺に多くの方々のご縁の輪が広がっていることは事実です。お寺だけでは応えきれないこともたくさんですが、それをまた皆さんの輪で支えていただいています。第20回フェスティバル安穏ではお手伝いの方が70人近くになりました。地元角田浜の檀徒、県内の安穏会員はじめ関東、関西、カナダからも。また「杜の安穏」増設の手続きに奔走してくださる安穏会員さんもおられます。こうした妙光寺は長い時間の中で大勢の檀信徒の皆さんが作り上げてきたおかげです。一人の動きがみんなの力に、みんなの協力が一人ひとりを救います。

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