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寺泊山法福寺住職 上人に聞く
―良恵住職とともに迎える佐渡配流七五〇年―

2018年12月号

新倉理恵子


 寺院には、お寺同士で支え合う「制度」があります。各々の寺院で困ったことが起こったとき、相談に乗る役割を持つ寺院があらかじめ決められているのです。妙光寺の正干与人は、寺泊にある法福寺です。妙光寺から海沿いの道を車で30分のところにある法福寺で、海津上人にお話を聞きました。


海津武尚上人(45歳)

横浜市生まれ。横須賀育ち。院首小川英爾上人の姉・みゆきさんの次男。15年前、法福寺の娘さんと結婚し、3年前に住職となった。昨年秋、母を亡くす。一男一女のお父さんでもある。

Q.最初に、法福寺の歴史を教えてください。
海津
 天平年間の七五七年に開創しています。越前国の泰澄大師が山頂に開いた法華堂が始まりです。泰澄大師は修験者として有名な方で、その頃は修行の場だったのでしょう。いつの頃か法華寺という名になり、その後八一二年に伝教大師最澄が当地を訪れて、天台宗の寺になりました。一二七一年、日蓮聖人が佐渡配流の際に、風がおさまるのを待ってここに一週間滞在されました。その時、当時の法華寺住職が日蓮聖人に心服して、法福寺という寺号を頂いて日蓮宗の寺になったのです。日蓮聖人はその後ここから佐渡に船出し、時化にあって妙光寺のある角田浜に流れ着いたということになります。

Q.法福寺と妙光寺は、昔からご縁があったということですね?
海津
 一二七一年には確かにご縁がありました。その後の具体的な関係のはじまりはよくわかりませんが、明治32年から法福寺の住職を務めている54世海津日忍上人という方が、その直前まで妙光寺の住職をしているんです。法福寺本堂に、「寄付角田山海津日忍」と刻まれた台座があります。ですから明治には、おそらく様々な関わりがあったのだろうと思います。日忍上人の甥にあたる55世海津日雄上人は、法福寺で最初に妻帯した住職で、私の妻の曽祖父になります。

Q.それで海津武尚上人ご自身は、良恵住職の従兄になるんですね?
海津
 院首小川英爾上人と私の母が姉弟です。私の母は5人きょうだいの4番目で、院首のすぐ上の姉になります。妙光寺の先々代である祖父がしたのは、私が生まれる直前でした。私からすると、院首は20歳年上の叔父で、良恵上人は10歳年下の従妹です。

Q.でも海津上人の家は、お寺ではなかったそうですね?
海津
 私の家――旧姓は島田ですが――島田家の祖父は、横浜で大工をしていました。でも祖父母はとても信仰熱心で、長男である私の父を僧侶にしたんです。私が生まれた頃、父は横浜の家から池上の宗務院に通勤していました。だから、私が育ったのは、横浜市の中心部です。駄菓子屋さんに通うのが楽しみな都会の子でした。意識は今も横浜っ子です。

Q.横須賀のお寺に引っ越したのは、いつですか?
海津
 小学校一年生の時です。父が横須賀市の法道寺の住職になりました。横須賀といっても寺があるのは片田舎で、周辺には駄菓子屋さんなんて一軒もありません。水洗トイレしか知らなかったのに寺のトイレは汲み取り式で窓からは墓場が見えるし、小学校一年生にとっては深刻な問題でした。緑豊かなところに引っ越したというのは小学生には関係ありませんから、環境の激変は大ショックでした。今は私の兄が、法道寺の住職をしています。

Q.次男の海津上人が僧侶になろうと思ったのは、なぜですか?
海津
 父からは、一度も僧侶になれと言われたことはないんですよ。でも6歳からお寺の子になって、「仏飯ぶっぱんむ」(仏前に備えたご飯を食べる)というんですが、そうやって育ってきたんだから僧侶となってお返しをする、という意識はなんとなくありました。信仰熱心な父方の祖母にかわいがられたことも影響しているような気がします。私も小学校5年くらいから法事の手伝いをして、中学生のころには、お坊さんになろうと思っていました。20歳のときに信行道場に行って僧侶の資格を取りました。

Q.では、大学は立正大学ですか?
海津
 いえ、それが某私大の理学部数学科なんです。すぐにはお坊さんになりたくない。警察官か教員になって、その傍ら仏教の教えを語るのもいいな…とか思っていまして、大学を卒業して29歳までは神奈川県の中学校で数学の講師をしていました。聾学校にも一年間勤務しました。勉強になりましたね。でも正式採用にはなかなかなれなくて、悩み多い時期でした。

Q.警察官、教員、僧侶…人と接する仕事ですね。
海津
 格好よく言えば、なんとなく「人の役に立ちたい」と思っていたんです。できるだけ大勢の人と関われる仕事をしたいと思っていました。ところが30歳を目前にしても、教員採用試験には受かりません。どうしようか…と思っていたころに、妻と出会ったわけです。うちのお寺の手伝いに、彼女が来てくれたことがあって「感じのいい子だな」と思いまして……そうこうするうちに法福寺ではお婿さんを探しているという話も聞こえてきて、先代住職に手紙を書いて「私がお婿さんになるのはどうでしょう?」と頑張ったのが15年前の秋でした。

Q.わぁ、未来の義父に手紙を書いたんですか?
海津
 そうなんですよ。頑張りました。自分を生かす場所を探していたんですね。考えてみると、私は「僧侶になろう」とは思ったけれど、「僧侶で生きよう」とは思っていなかった。法福寺は、私にとっては生まれ変わる場所だったような気がします。寺泊に行くのは、母の実家の角田浜に帰るようなものですから、ごく自然なことでした。それで30歳の春に結婚して法福寺に来ました。母は昨秋亡くなりましたが、母の故郷の海を見ながらお坊さんをしているのは、ご縁以上のものを感じます。

Q.住職になられて丸3年ですが、法福寺の今後をどう考えていますか?
海津
 院首である義父はいますが、やはり住職の仕事は忙しいです。仏事はもちろん、本堂までの道路の拡幅を計画中で、その実務もあります。それから保育園もやっていて園長は妻の妹ですが、義妹には現場に専念してほしいので事務長兼用務員は私です。寺の将来のことも考えたいのに、毎日の仕事に追われていることが悩みですね。ただ檀家さんだけでなく一般の方でも、いろいろな相談事に来られる方がいるんです。話すだけでホッとした、と言っていただける時はうれしいです。

Q.叔父さんである小川英爾上人は、海津上人から見るとどんな存在ですか?
海津
 私は葬儀の引導文≠自分で書いているのですが、それは妙光寺では以前からやっています。私が僧侶としてやってみたいと思うことは、たいてい叔父がすでにしているんです。安穏廟を始めたころは批判もあったようですが、我々の世代から見ると人望があります。私にとって叔父は大きな目標です。

Q.今年6月の法福寺のお大会で、良恵住職がはじめての法話をさせていただいたと聞きましたが、いかがでしたか?
海津
 法福寺では毎年6月に「」を行います。今年の法話は、良恵住職にお願いしました。良恵さんの法話デビューということで、肉親としては少し心配でしたが、みごとな法話でした。当山法福寺の総代様から「感銘を受けた」というメールも頂いて、本当に良かったと思っています。

Q.二〇二一年は、日蓮聖人の佐渡配流から七五〇年ですね。
海津
 佐渡配流は日蓮聖人が50歳の時なので、生誕八〇〇年でもあります。法福寺にとっても、妙光寺にとっても、日蓮宗全体にとっても大切な年です。ご縁の深い寺で、いとこ同士ですから、これからも協力し合っていきたいですね。
 
ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

 (聴いた人 編集部・新倉理恵子)

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