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掌を合わせ、心安らぐ場所を求めて

    −福島・楢葉町ならはまちから新潟市へ−

2017年7月号

新倉理恵子

 二〇一一年三月十一日の東日本大震災から、今年は七回忌を迎えました。新潟県内には福島県から避難してこられた方々が、今も大勢暮らしています。その中に、毎年三月十一日に妙光寺で慰霊祭をしている方がいます。原発事故の現実と、妙光寺との出会いをうかがいました。
 

渡辺光明さん(64歳)
 新潟市西区在住。利恵子さんの夫。被災時は福島県楢葉町で農業をしていた。
 
渡辺利恵子さん(64歳)
 光明さんの妻。
 
*福島県楢葉町…人口約七四〇〇人。事故のあった福島第一原発から20q圏内にあるため、町全体が警戒区域となり全域避難。第二原発のある富岡町の南隣に位置する。全域避難した自治体として初めて二〇一五年九月、避難指示が解除された。解除後、戻ってきた人は約一五〇〇人、21%。
 

Q.では、三月十一日のことを聞かせてください。
光明 私たちの家は、楢葉町の高台にあります。脱サラして実家で農業をしていました。畑が八千坪あって、本格的にやろうと機械などをそろえて、ちょうど1年経ったところでした。あの日は、友人と一緒に畑でゴボウの穴掘り――つまり耕していたところでした。そうしたらグラッときて、地面が波打ちましたね。ゴォーっと地面から音がして、これは全然違うな、と思いました。
利恵子 私は当時勤めていたんですが、あの日は休みをとって偶然家にいました。台所で夕飯の下ごしらえをしていたら、揺れて揺れて這って家の外に出ました。
光明 自宅の下の集落は、津波で全滅して亡くなった方も出ました。でも最初は避難するつもりはなくて、危ないから納屋で食事をしようか、と準備していたんですよ。
利恵子 夕方になって近所の方に、みんなが体育館に避難しているから行こうと言われました。それで長靴履きで軽トラックに乗って、何も持たずに体育館に行きました。一晩で帰るつもりだったんです。

Q.そのときは、原発のことは考えていましたか?
利恵子 全然考えていませんでした。「絶対に安全だ」と言われていましたから。
光明 最初は地震と津波からの避難だったんです。十一日の夜も、一晩中余震でかなり揺れていました。それが翌朝、第一原発は爆発したらしいというし、町がバスをいっぱい準備して避難してくださいということになりました。それで私たちも軽トラックで、町のバスといっしょに南のいわき市に避難しました。大変な渋滞でした。
利恵子 その後、息子がインターネットで調べて電話をくれて「新潟県が一番受け入れ体制が整っている。日本海側が安全なんじゃないか」というので、新潟に向かいました。
光明 途中で2千円分ガソリンを入れて、吹雪の中を高速は使えないので細い道を通って、会津から新潟に入りました。新潟市西区の西総合スポーツセンターに着いたのは十八日の午後三時ごろでした。私たちは縁もゆかりもない新潟に、一人の知り合いもなく来たんです。

Q.避難所生活は、大変だったでしょうね。
光明 西スポーツセンターも次第に人が増えて、多いときは五百人以上になりました。原発避難の場合は地震などと違って、避難地域の人は1人残らず避難して来ます。その中には介護が必要な人や色々な人がいるわけで、集団生活ですから様々なことはありました。ただ避難所にいれば支援物資が届きますから、温かい味噌汁とお弁当も出ます。そこにいる人は大丈夫なんです。ボランティアをはじめ、新潟の皆さんにはよくしていただきました。
利恵子 ただ、私は避難所で肺炎になってしまったんですよ。保健師さんが来てくれていたんですけど、やはり子どもや高齢の方が優先でしょ。具合が悪いけどまだ大丈夫と我慢していたら肺炎になって、もう少しで危なかったと言われました。
光明 そんなこともあって、夏になる前に近くのアパートに移りました。今もそのアパートで2人暮らしです。

Q.楢葉町のお宅は、今はどうなっているんですか?
利恵子 実は、つい先日取り壊して解体確認に行ってきたところなんです。納屋は以前に壊したんですけど、母屋を解体したので…母屋となると、感じが全然違いましたね。(壊した母屋の写真を見せていただく。庭の桃の木が花盛りである。)海まで直線距離で500mくらいで、台所の窓の正面にある竹林から朝日が昇る家でした。
光明 私たちの家は、楢葉町の中でも富岡町に近い側なので第二原発から1q地点です。避難解除になっても、昼間は除染作業のダンプカーだらけですし、作業員がいない日曜はスーパーも閉店です。
利恵子 うちの畑は反転耕≠オたんです。水田は表土を取りましたよね。畑の場合は汚染された土とその下の土をかき混ぜるんですよ。
光明 環境省に表土だけ取ってくださいと頼んだんですが、「汚染土が大量になるから駄目だし、お宅だけ特別にはできない」と言われてしまって。だから畑はもう使えません。
利恵子 それに私たちの家は、南側に畑があって、他の三方は防風林の杉林に囲まれているんです。そのために放射線量も高くて、何万ベクレルです。杉の木の下は除染してもらいましたが上はそのままですから、放射性物質が落ちてきます。それで住まない方がいい、子どもは立ち入り禁止と言われてしまいました。
光明 私たちは強制避難でしたが、帰る時は各自の判断と言われます。本当に理不尽だと思います。でも、私たちはこの国で生きていかなくちゃならないのでね。何気なく平穏に暮らしていることが、奇跡のようなことだと再認識しました。裕福でなくても平穏に暮らしているということが、一番幸せなんですよ。

Q.妙光寺においでになったきっかけは?
利恵子 本当に偶然です。新潟に来てすぐ、まだ避難所にいたころにドライブに来て、そこの国道から看板を見て「なんだろうね、ここ」と入ってみたんです。そうしたら素敵な自然いっぱいの境内で…。いつ来てもオープンで、本堂前のベンチにはコーヒーとお菓子があって「ご自由にどうぞ」とあるし、こんなところがあるんだろうかと思いました。
光明 開放的なお寺で、宗派を問わないということに本当に感激しました。庭の管理をしている方も、浪江町から避難した方だと聞きましたし。
利恵子 自宅のお墓参りもできないし、心の落ち着くところ――手を合わせる場所がほしいと思っていたんです。それ以来、毎月一日と十五日にお参りに来ています。
光明 それで震災の翌年の三月十一日に、避難している高齢者のグループで慰霊祭をやろうとなった時、妙光寺しかないと思ったんです。ご住職に相談して、その年から今春まで毎年慰霊祭をしてきました。
利恵子 夏の送り盆≠ノも毎年来ています。毎年違う行事があって、いつも楽しんでいます。最初の年のサムルノリ(韓国の伝統芸能)は素晴らしくて感激しました。
光明 岩屋のコンサートも楽しかったし、蓮の花づくりもやりました。それに販売されている茄子漬が、とっても美味しくて…。
利恵子 こちらの総代さん夫婦が、送り盆≠ノ合わせて十全茄子を植えて漬けていると聞いて、びっくりしました。とにかく皮が柔らかくて、妙光寺の送り盆∴ネ外では手に入らない茄子漬です。あの茄子漬を食べられたのは、新潟に来て良かったことの一つです。

Q.新潟の生活はいかがですか?こちらでも農業をなさっているとか?
光明 畑を紹介してくれる方がいて、百五十坪の畑を4ケ所借りています。うつくしまクラブ≠ニいう避難している親子を励ます会で、芋掘り等のイベントをしているんです。百人以上集まります。今度はいちご狩りを計画しています。こうして新潟にご縁ができたので、生きている限り元気にやっていこうと思っています。
利恵子 避難直後の肺炎で、私は考えが変わりました。やりたいことは、できる限り先延ばしせずにやろう、と思うようになりました。角田山にも幾度か登りました。素敵な山ですね。角田山のふもとにあることも、妙光寺の魅力です。

貴重なお話を、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
 

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