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妙光寺とともに六十三年 −斉藤大工さんは語る−

2016年9月号

新倉理恵子

 妙光寺では、昨秋の大広間改装に続き、今夏は和室が講堂に生まれ変わりました。「妙光寺を、今を生きる皆さんの浄土にしよう」という計画に基づく改装です。それを一手に引き受けたのが、妙光寺の大工さんである斉藤さんです。実は斉藤さんは、大工さんの域を超えて長年にわたって妙光寺の仕事に関わって来ました。妙光寺の変貌を裏から支えてきた斉藤さんに、お話をうかがいました。
 

斉藤新一さん(78歳)
 祖父の代から、角田浜で大工をしている。妙光寺の檀徒ではないが、妙光寺の建物については誰よりも知り尽くしている。お寺では、困ったときには「斉藤大工さん」として頼りにされている。
 

Q.斉藤さんが大工としての修業を始めたのは、お幾つのときですか?

斉藤 私は昭和13年生まれで、中学を出て15歳から親父のもとで修業を始めました。父から「とにかく大工になれ」と言われて、高校には行かずに仕事を始めたわけです。父は、私が24歳の時に亡くなりました。まだ68歳でした。その後私は30歳の時に一人立ちの大工になりました。

Q.妙光寺とのお付き合いは、お父さんの時からですね。

斉藤 父が先代の住職とお付き合いがあって、始終お寺に出入りしてあちこち直したりしていました。だから私も父と一緒に、お寺の仕事をするようになったんです。

Q.先代のご前様は、どのような方でしたか?

斉藤 大変真面目な方でしたが、気さくな人柄でした。私は、先代からお酒の飲み方を教わったようなもんです。先代は酔うと、私の家に電話してくるんです。そして「ちょっと用があるから来てくれ」と言われる。行ってみると、用事というのは一杯やることなんですね。そうやって、しょっちゅう一緒に飲んでいたものです。

Q.その頃の妙光寺の建物は、かなり傷んでいたそうですね。

斉藤 敷地も広いし、奥様一人では草取りもままならないような状態でしたね。でも住職夫婦二人きりで管理しているわりには、こざっぱりとしていましたよ。いつもきれいにされていました。ただ、建物は古かったですから、相当傷んでいましたね。
 今の祖師堂になっているのが昔の本堂ですが、一度団体参拝が来ている最中に、床板が抜けて大騒ぎになったことがあります。何人も板の上に座った状態で、板が床下に斜めに落ちてしまい、上にいた人たちも滑り落ちました。怪我人が出なかったのは幸いでしたね。「大変だから急いで来い」と言われて、慌てて駆けつけました。人が乗っただけで、はずれるような状態だったんです。

Q.それでは、常にあちこち直している状態だったんですね。

斉藤 そうです。その頃は境内に作業小屋があって、ちょっとした材料はいつもその中に置いてありました。ホームセンターがあるような時代ではありませんでしたからね。そして心配なところがあれば、その度に直しに来ていました。『ご判様』行事の時には、三日くらい前から通って、周りから中からすべて見て回って直しました。先代が前日に全部点検して「まだここがおかしいから」と言われて、また直しました。

Q.雨が降ると浸水したと聞いていますが。

斉藤 そうなんです。ここは、少したくさん降るとすぐに水が溜まって、私もボートに乗って玄関まで入ったことがあります。数年に一回は水害に遭っていました。必ず床上浸水する部屋があって「水部屋」なんて言われていて、駆けつけてみたら畳は浮いてしまうので、表面は濡れてないんですね。先代に「いやぁ、畳は濡れないで良かったね」と言ったら、「その上を今、あんたが濡れた長靴で歩いてる」と言われて、笑ったこともありました。

Q.今はきれいになった妙光寺ですが、最初の工事はどこですか?

斉藤 鐘楼です。まだ、私が40代の頃でした。以前は外壁がついていて、中は本堂の屋根を葺くための萱を入れておく場所になっていました。その外壁を取りはらってオープンにして、瓦屋根をすべて取り換えました。今のご前様の代になってからは、ご存知のように工事の連続ですね。

Q.新本堂の仏具は、すべて斉藤さんが作られたと聞きましたが。

斉藤 そうです。正面のご本尊の前の台や、ご前様とお上人らが座る台、お経を入れる箱からその机まで、すべて私が作りました。

Q.本当は、大工さんの仕事ではありませんよね。

斉藤 本来は指物師とか、仏具屋さんの仕事です。でも仏具屋さんの見積もりが高かったとかで、ある日お寺に呼ばれて来てみたら、設計士さんや世話方の皆さんが揃っていて、その前でご前様に「できるか?」と聞かれました。やったことがない仕事ですが、できそうだと思ったので「できる」と言ったのです。「幾らかかるか?」と尋ねられて、「では、これくらい」「じゃあ、決まりだ」という具合でやることになりました。何しろ初めての仕事ですから、大変でした。正面の中心になる橘の模様(日蓮宗の宗紋)は、ある日ご前様が図面のコピーを持ってきて「これを彫ってくれ」と言うんです。ああいうものを彫るためには特別なノミも必要ですが、私は大工だから特別な道具はないし、いろいろ工夫しました。出来上がった時は、我ながら「うまくできたな」と思いましたね。

Q.斉藤大工さんは、本当に何でもやってきたんですね。

斉藤 新本堂ができた平成元年には、旧本堂の床板を花台にして、竣工記念品にしました。その六百枚の花台も、作りました。古い欅の板なので、所々に穴もあります。みんな埋め木をしました。木目を逆さにしてみたり、将棋の駒の形に抜いてみたり、自分なりに楽しいものにしたつもりです。最後に、ツヤ出しのためにイグサ油を塗るところまで、私がやりました。

Q.フェスティバルのお手伝いでも、活躍されてきたそうですね。

斉藤 第一回フェスティバル安穏では、安穏廟の法要のためにロウソク台を作りました。大変でした。話だけで図面もない。今まで誰も見たことのないものを作る仕事でしたからね。そして、次の年の第二回では、あんなに苦労したのに、今度は二段のロウソク台にすると言う。この寺はいつもそうなんです。さんざん苦労して作ったものでも、次はこうしたいとなれば変えて行く。それで今年は27回目ですよね。よく続けてきたものです。

Q.昨年は客殿の広間、今年は和室を改装して「講堂」ができました。円窓は、本当にインパクトがあります。

斉藤 最初の設計では、円窓の中心に縦の柱があったんです。でも、間柱があるから強度の点では大丈夫と思って、私が柱をなくすことを提案しました。高さもね、設計ではもう少し高かったんです。私が10センチ下げて円を描いて、ご前様に見てもらうと低すぎるということで、間を取って5センチ下げました。その他は図面通りです。円形は難しくて、縁の板を貼るのには苦労しました。

Q.振り返ってみると、妙光寺の仕事はいかがですか?

斉藤 正直に言えば、好きなことをさせてもらったなあという感はあります。これは大工の仕事かな、と思うものもありました。でも基本的には断りません。「できそうだ」「やってみようか」「できた」…の繰り返しです。出来上がってから違うと言われると困るから、出来上がりはこうなるという説明は丁寧にしてきました。どれも、一生に一回の仕事です。挑戦の連続です。

Q.あとは、茶室の水屋の工事ですね。他は、どうなりますか?

斉藤 水屋もあと少しで終わって、次に台所の新しいテーブルの上に載せる調理用の台を頼まれています。軽くないと困りますから、材は桐ですね。廊下板の痛みもあります。ここは湿気が多いので、床や土台の腐食が早いんです。

Q.来年には住職交代式もありますから、まだまだ仕事がありそうですね。

斉藤 私も年ですから、高い所はきついです。広間の改装の時は、脚立を幾度も昇り降りするのが大変でした。でも、まだまだ頼まれればやりますよ。何でも引き受けます。高い所以外ならね。

頼もしい言葉をありがとうございます。

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