開創七百年記念インタビュー
妙光寺 懐かしい日々 ―昔の妙光寺を知る檀徒の皆さんに聞く―
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2015年3月号 |
新倉理恵子 |
妙光寺は一昨年、開創七百年を迎えました。大きな節目を迎える中で、本堂改築以前、そしてご前様も知らない少し昔の妙光寺のことを、うかがってみたいと考えました。夏の「送り盆」では、昔の妙光寺写真展≠煌驩謔ウれています。そこで展示する予定の写真数葉を眺めながら、四人の檀徒の方々にお話を聴きました。
小林雄以さん(90歳)
現役時代は農協専務を務めた。元総代。
大滝リユさん(87歳)
数年前まで畑に出ていた。亡き夫は総代だった。
息子は現総代大滝剛さん。
石田誠太郎さん(85歳)
現役時代は中学校教師。フェスティバル安穏
初代事務局長。
妙光寺の古文書についても、造詣が深い。
石田チイさん(78歳)
農業の現役。今も毎日畑に出ている。
戦前のご判様
Q.この写真は、戦前でしょうか?春先だから、ご判様の写真ですよね。
石田チイ(以下チイ) 羽織の丈も長いし、これは戦前でしょう。戦後も『妙光寺のご判様』というと、この辺りの若い人が皆集まってました。私の実家は一向宗(浄土真宗)だけど、姉たちはおしゃれして妙光寺に出かけたものでしたよ。
小林 4月27日の朝から始まって、一晩皆でお寺に泊って、28日の午後3時頃までやってたわけだから、「ご判様」は大きな行事でしたね。昔はご判を船で運んだそうだけど、それは私も記憶にないですね。私が覚えている時は、もう岩場の道を歩いてトンネル出口でご判を受け渡してた。いつごろから、やっていた行事なんでしょうか。
石田誠太郎(以下誠太郎) そもそもは、日蓮聖人が遠藤氏に下された『ご妙判』(日蓮聖人の印鑑)を、年一回五カ浜の遠藤家から妙光寺に運んで、ご開帳する行事なわけだけど、寺の文書によると一八〇二年(享和二年)の3月に「ご判をお迎えに行く」と書かれているのが、最初の記録ですね。江戸城での「出開帳」も三度行われています。一番古いのが、四代家綱(一六五一〜一六八〇)の時ですから、三百年以上昔のことです。明治時代までは、ご判を五カ浜から、船で運んだようです。
チイ 絣のいい着物を着ておしゃれをして、遠くから歩いて来るので地下足袋を履いてきて、お寺で下駄に履きかえて、遊山だったよねぇ。
聴き手 あぁ、物見遊山の「遊山」ですね。(そう、そう。)〔遊山…自然の中で遊んで、心が晴れやかになること〕
誠太郎 農家は筋蒔きが終わって、だっくらした時期で、「草餅持って、角田のご判に行こう」という風でした。会社も休みになるし、学校も半日休みで、宗派に関係ない地域のお祭りだったんですね。
Q.二日がかりで、何をするんですか?
小林 稚児が出て、お寺もたくさん来て、都合3回、法要をするんです。夜は一晩皆で本堂に泊って、説教を聴きます。三百人からいるので、ぎっしりですよ。「角田の通夜説教」と言ってね。眠気覚ましにお札を買いに来るからお札の係は起きてるし、岩屋にもお参りに行くから岩屋の当番もいました。一度岩屋に一人で賽銭集めに行かされて、一番奥にロウソクが2本あるだけで、あれは怖かったねぇ。忘れらんねぇね。
大滝 私も、小学校入学前から二年生くらいまで、稚児に出ましたよ。泊りだから、布団かついで皆来たわけだよね。露店もたくさん出て、池のそばに風呂屋が出てた。葦簀を張ってね。
誠太郎 平成8年から28日の一日だけにして、その後当番も仕事を休めないということで、祝日の29日にずらしました。人出も少なくなりましたね。
Q.次に、八月一日のお盆について、教えてください。
チイ 裏縁側の方に升潟地区の人の部屋があって、そこで本家が持ってきてくれたお昼を皆で食べて、子どもたちは一日中海で遊んで、楽しかったねぇ。
小林 地区ごとの部屋割は、お寺の決めではなくて、自然にあぁなったんだね。巻地区は、祖師堂に当時は畳敷きの床があって、いつもそこでした。
チイ お嫁に行った人もその部屋に行けば、実家の人たちや地区の皆に会えるんです。まだ暗いうちから牛車に荷物を一杯積んで、出かけました。焼麩の煮付けやこんにゃくの煮付けや…。昔は、お寺のお齋はなかったんだね。
小林 あの人数じゃ、お齋は無理だて。子どもが海水浴に行って一日中帰って来ないから、大人も夕方まで帰れない。戦前は浜茶屋もそんなになかったから、子どもの海水浴は年に一回、お盆だけの楽しみでした。
大滝 手伝いのお寺さまには食事を出してたんだろうね。うちは孫親(祖母)がご飯炊き専門だったから、釜の横にいたのを覚えてる。かき氷やところてん、素麺の露店とかも、出てたね。
チイ 角田までは峠の坂を越えてこなくちゃいけないから、昔は大変でした。牛に車を引かせてきたら、坂道で牛が前足の肘をついて涙を流して、引っ張ってた。
小林 昔は峠があったから、あそこの登りがきつかったんだ。
誠太郎 角田の子どもが、墓のお供え物を取って食べていたって、聞いたことがあるけど…。
大滝 笹団子やトウモロコシ、トマトとか、農家の人のお供えはそんなだった。でも町場の人が来ると、たまにお菓子が供えてあって、墓のお経を読むときから後ろに来て、狙ってたりしたねぇ。
小林 トウモロコシとかは見慣れてるけど、お菓子は珍しいからねぇ。
Q.妙光寺は近年すっかり整備されましたが、昔はどんな風でしたか?
小林 一番古い建物は、山門ですか。昔のままですよね。
誠太郎 山門は一八一五年(文化12年)建立です。建替え前の本堂は、一七六四年(明和元年)の建物でした。『角田山御歴代控』という遠藤家の当主が、一八一〇年(文化7年)に書いた文書に、「一七六四年、本堂の棟上(むねあげ)式をした」と記されています。この寺は江戸時代の50年間に、2度火事で焼けているんです。一七〇八年と一七五六年の2度ね。だから、一七六四年に本堂を建てた時は、お金がなかったんでしょうね。以前の本堂は、かなり粗末な建物でした。彫刻もろくになかったしね。
小林 昔の本堂は今の題目堂の所にあったと聞いてますが、一七六四年の本堂は、向こうに建てたんですか。
誠太郎 それはわかりません。位置までは、書いてないんですよ。
幾度の水害に遭った妙光寺
Q.排水の工事をするまでは、幾度も大水にあって
いるんですよね。
大滝 ここは大雨になるとよく水が出て、以前は本当に大変でした。
チイ 雪どけ水が出る時期は、本家のじいちゃんを背負って水の中を歩いて、やっと寺に辿りついたと主人に聞いたことがあります。
誠太郎 明治の初めは寺子屋がここにあって、「風が吹くと砂が飛んで子どもが困るから小学校を建ててほしい」という陳情の書類が、区役所に残っているんです。その頃は水が出ることはなかったようです。でも戦後は、何度も水害に遭っています。この寺は、低い所にあるんです。
大滝 だけど、どこも全体に、地面が高くなってるよね。昔は腰掛けられた所も、座らんなくなってるもん。
誠太郎 あぁ、寺が低いんでなくて、周りが高くなってるのか。とにかく、ご前様が住職になられてから、この寺は工事の連続でした。
小林 でもきれいになって、本当に良かったです。うれしいですよ。
貴重なお話をたくさん聞かせて頂き、ありがとうございました。