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親子三代の職人魂 神奈川県鎌倉市 遠藤毅士郎(69)さん一家

2011年7月号

小川英爾

遠藤毅士郎(69)さん一家

7月の関東のお盆には、先代の時代から住職が個々の檀徒宅に伺って40年以上になる。遠藤さんのお宅では、いつも家族全員が集まって一緒にお仏壇にお参りされる。近ごろはお参りの後、毅士郎さんの長男淳也さんがコックで、腕を振るった料理が食卓に並んで会話が弾む。

毅士郎さんの両親は妙光寺の隣村、五ヵ浜の生まれ。父親の留一さんが幼くしてその父親と死別したため、小学校を出るとすぐに親戚を頼り上京して大工の見習いに入った。苦労の末やがて独立、35歳のころには縁あって神奈川の藤沢市で仕事が増えた。住宅工事でも現場に飯場を建てて寝泊りする仕事ぶりで、奥さんと5人の子どもは五ヵ浜に残し、正月に戻ればいいほうだったという。

長男の毅士郎さんが15才のとき、留一さんに「大工より左官屋になれ」と言われて東京千住の左官屋に連れて行かれ、そのまま置いていかれてしまった。そこで3年間弟子勤めの後、他所で経験を積んで20才でひとり立ちした。しかし留一さんは親子でやると問題が起こりやすいからと、一緒に仕事はしなかった。

やがて好景気の時代を迎え、留一さんの頑固なまでに誠実で職人気質、腕もいいとの口伝えで、当時藤沢市周辺に工場が進出してきた日立製作所の幹部役員の住宅の仕事が次々に舞い込んで来た。こうなると飯場暮らしもできず、借りた農家の牛小屋を改造して家族で暮らした。50才で「遠藤工務店」となり、ピークには大工さんだけでも20人以上を抱えた。その経理事務は毅士郎さんの妹と横須賀から嫁いだ妻の淳子さんが担当し、毅士郎さんは引き続き別に仕事を続けた。

毅士郎さんの長男淳也さんは、小学4年生頃までは学校から帰ると父親の仕事場で遊んでいた。中学生になって両親が忙しいので食事は自分で作り、そこから食品に興味がわいて就職先がシューマイで知られる横浜・崎陽軒。さらに調理士学校に進んで中華料理のコックさんになった。有名中華料理店を経て、今は某大手生命保険会社の研修施設の食堂で、多いときには一食で400人分を同僚と作る毎日。「大きな会社なので出世する人はペーパー試験で上に上がっていくけど、僕は現場で美味しいものをきちんと作りたい」と言う。

留一さん夫婦が亡くなって17回忌を迎えた。亡くなってから「遠藤工務店」を引き継いだ毅士郎さんだが、「不景気で職人さんは少ないけど、日立の幹部のお客さんから改修工事の依頼が絶えないので大事にさせてもらってます。親父が頑張ってくれたおかげです」と。親子3代、誠実に仕事に打ち込む職人気質の人柄が受継がれている。

留一さんが元気な頃、故郷五ヵ浜の家を建替えて夏など家族で年に数回は墓参りを欠かさなかった。しかし毅士郎さん夫婦も新潟までの運転が辛くなり、昨年墓を藤沢市営霊園に移した。同居する長男淳也さんは横浜生まれの江利子さんとの間に、15才を頭に4人の男の子が産まれ、賑やかな8人家族となった。また全員が揃ってお仏壇参りのお盆がやってくる。(写真は嫁いだ長女親子も入り、淳也さんが席をはずしてました)

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