二人は定時制高校で放送部の先輩と後輩だった。その頃から交際が始まり、清さんが卒業後地元企業に就職、東京支店に配属されたので以降は文通を続けた。昌子さんは末っ子だったが兄姉が家を離れ、清さんは末っ子の六男。必然的に婿入りとなって、清さんが25歳のとき新潟に戻り結婚した。
兄姉が多い清さんの実家は貧しく「親には何事にも一生懸命になれ。人様には迷惑をかけるなと言われて育ちました」と。転属した系列の会社でも懸命に働き、共働きで3人の子どもは同居の両親が世話をした。40代後半で管理職に就いた清さんが社内の人事問題に悩み、出社拒否状態からついにはひとり家を出て、自殺を考えながら1ヶ月半放浪を続けた。当時入院していた母親がことのほか心配し、ようやく連絡が取れた暮れの12月、昌子さんが広島まで迎えに行った。「あの頃は本当に色んなことがあって、大変だったね」と昌子さん。
その後親戚の引き合いもあって高速道路の料金徴収の仕事に就いた。そこでも懸命に努め、正社員から業務部長になった。しかし仕事上のミスが2回続き、任期を残して63歳で身を引いた。実は清さんには40代から手術でも治せない遺伝性の難聴があり、それが話の行き違いを生むミスの原因なのだ。今は清さんが趣味の写真とパソコンと料理、昌子さんはフォークダンス、コーラス、折り紙、さらに二人でスクエアダンスに夢中の毎日を送る。