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塔頭『京住院』を再建 河野清治さん(78歳)

2008年7月号

小川英爾

このたび完成した『京住院』(通称を前寺)は、埼玉県朝霞市の河野清治さんの全面的なご尽力によるものです。その経緯をお伝えします。

―塔頭再建話―

塔頭(たっちゅう)とは、大寺院の高僧が亡くなると弟子がその塔(墓)の頭(ほとり)を去らず、小寺を建てて住んだのが始まりと言われている。やがて大きな寺の境内には小さい寺が建てられるようになり、現在も規模の大きな寺にはたいがいある。それらは、明治時代以前の僧侶は結婚しなかったので老齢になった住職の隠居所、あるいは本寺に勤める役僧の住居といったふうに使われてきた。妙光寺塔頭の『京住院』は、その名称から350年前の住職で京住院日通上人の代に開かれたと推測している。その当時からの建物ではないだろうが、老朽化したので25年ほど前に解体したのだった。40年余り前まではここに寺家(じけ)様と呼ばれ酒が大好きな役僧が居て、逸話も多く皆さんにとても親しまれていた。当時を覚えている高齢の檀徒もまだ多い。

近ごろ家族の形が変化して、“家族葬”と言われるように葬儀が小規模化し、同時にお寺を使いたいという希望が増えている。しかし妙光寺は部屋の間取りが大きく不便なため、『京住院』があったら葬儀や宿泊に使えたらいいねと、話題になることが多かった。一方で、7年前に新本堂に建て替えた際、仏像一式を新しくし、それまでの仏像はいつか『京住院』を再建することができたら修復して、その御本尊にしたいとのかすかな思いがあった。そんなところに河野さんから突然「私が全額負担するので昔の前寺を復活して御本尊をお迎えし、皆さんに使っていただいたらどうでしょう」とのお申し出をいただいたのだった。

―生まれ―

河野さんは昭和4年旧巻町に生まれた。本人もいまだに掴みきれない部分があるほど両親の出自は複雑で、父母双方が5人の子連れでの再婚だった。その両親の間に生まれた唯一の子が河野さんだった。しかも父親と母の先夫が兄弟らしいのだが、詳しいことはわからない。今の時代では理解しにくいが、当時兄の死亡で妻が弟の嫁になるといった例は多かった。たとえ関係は複雑でも、河野さんは両親や義理の兄姉からは大切にされる優しい家族だった。もっとも両親の再婚で子供が10人にもなるせいか、養子幼女、あるいは嫁に行かされた兄姉もあって、両親と2人の姉との生活しか記憶にないという。

ただ河野家は妙光寺先々代住職の夫人の遠縁にあたるという話もあって、そのせいか親戚は皆妙光寺の檀徒である。河野さんの母も信仰心が篤く、文字が読めなかったのに、先代住職から大きな和紙に「シキョウナンジ・・・」と、お経文を大きなカナ文字で書いてもらって毎日熱心に読んでいた。

―東京へ―

15歳で小学校を卒業すると東京立川の陸軍少年飛行兵学校に入るが、翌年には終戦を迎えグライダーに乗っただけで、昭和20年8月故郷の巻に戻ってくる。そこで父方の長男について大工となり、親戚の農家に泊まり込んで家の修理などに携わって糊口をしのいだ。「あのころは食糧難だったから、ご飯を食べさせてもらったり、給料の代わりに米をもらうんですよ」と。当時から手先が器用で、仕事の合間に作った大工道具の「墨つぼ」を、いまだに懐かしさから大切に保管している親戚があるという。

やがて東京に出る決心をして、昭和26年22歳でこの兄のつてを頼って深川の大工仲間の元へ。その年の10月には年齢学歴不問の工学院専修学校に入学、2年間建築設計一般を学んだ。そのときは深川を出て一緒に育った父方の姉キチ宅に居候させてもらう。実はこのキチの夫与一は母方の長兄でもあり、この夫婦に子供がいなかったせいもあってかよく面倒見てもらった。その恩が忘れられず、後に与一が亡くなったとき、自分が申し込んでいる安穏廟に世話し、また現在90歳を超えて施設に入居しているキチの後見人として一切の世話を請け負っている。そんな義理堅い河野さんである。

―結婚―

やがて学校を終え、友人と2人で部屋を借りて建設業界に身を置くものの、当時は建設不況もあって小さな建設会社を渡り歩くことになる。そんななかでも河野さんは29年に2級建築士、30年に測量師、34年には念願の1級建築士に小学校と専修学校卒業だけの学歴で合格する。

そのころ仕事の合間にアパートからも近い喫茶店「リラ」に通い、クラシックレコードを聴くのが楽しみになっていた。その店を手伝っていた店主の妹の智子さんと、1級建築士合格発表の帰り道に八百屋の店先で偶然に出会い言葉を交わす。それを機に交際が始まり、ある日河野さんが風邪で寝込んだのを、智子さんが寝ずに看病してくれたことから決意して3か月後に結婚式を挙げた。そのときの智子さんの言葉がこの2人をよく表している。「私、八百屋の前で出会ったときあなたと結婚するって決めたの。でも私の年齢を聞かないという条件を承知してくれるならね」。29歳だった河野さんは勝手に思い込んでいた2歳年下ということで周囲に話し、自分でも何ら疑うこともなかった。それが60歳で年金をもらうとき、何かの書類で智子さんが11歳年上だったことを初めて知った。「いまごろわかったの、馬鹿ねえ」と智子さんは明るく笑った。

音楽、書、絵画と多彩な智子さんはいつも元気で明るかった。「元々の性格も時代の教育もあるのでしょうが、私は生真面目で根っから暗い人間だったのです。でも智子に出会って人間はこんなに明るく生きられるんだって、教わりました」と河野さん。

―仕事時代と退職後―

いくつかの建設会社で働きながら、大企業の地方支店建設工事をいくつも任されるほど信頼され河野さんはこつこつ働いた。子供ができなかったので、お金は土地を買ったり、株を買って損をしたりしたが結構貯まった。しかし小さな建設会社で役員にも就いたから、倒産で負債を負わされては困ると思い半分は妻名義にしていた。

人並みに病気もした。母親の88歳のお祝いに帰省してそこで心筋梗塞になり、巻町立病院に入院した。2ヵ月後の退院の日の朝、優しかった母が逝ったのも不思議な縁だ。東京に戻って良い先生に心臓手術を受けたのだが、その10年後ガンに罹ったときも偶然同じ先生に執刀していただき、いまは元気に過ごすことができている。

退職後2人は平成9年11月、檀徒で巻に住む姪を伴い、懐かしい故郷の妙光寺を訪ねて安穏廟を決めた。境内には智子さんにも優しかった河野さんの母ウメさんが眠っている。さらに14年には生前戒名を2人で受けた。善定院随喜日清信士、善智院妙信日果信女。

―妻の死―

病弱ではあったが明るい智子さんが、平成17年秋から不調を訴えるようになった。暮れの12月5日に掛かり付け医の勧めで入院検査したが、何も見つからない。18日には病院で年賀状の準備もした。「でも本人にはわかるんでしょうか、何気なく香典返しの準備はできているの?って言われてドキッとしました」。25日精密検査でスキルスガンという、胃壁に隠れたガンが見つかた。腹水にもガン細胞があって手術は困難と言われ、河野さんは覚悟した。最期が年末年始にかかることも懸念されたので妙光寺に連絡、近くて信頼できる葬儀社にいつでも対応してもらえる段取りができた。医師に痛みはできるだけ取って欲しい、延命処置は不要と伝えた。22日ころはオーデコロンが欲しい、タオルは柔らかいものを、と言う力もあったが、27日呼吸困難となり、翌28日早朝、眠るように静かに眼を閉じた。妙光寺から鎌田が読経に伺い、葬儀は後日行うことにして29日、近親者立ち合いの元で火葬に付した。

―死後の整理―

予てから夫婦の間では子供がないから2人の遺産は妙光寺に寄付しようと話していた。ところが財産の半分近くを妻名義にしていたのに、夫婦間でのお互いの死後相続を取り交わす遺言書を書いていなかった。そのため財産の整理に弁護士を頼むなど、その手続きにとても手間どった。こんなことでは自分亡きあと妙光寺に遺産贈与で面倒をかけるかもしれない。だったら生前に寄付しよう、それなら前寺再建に使ってもらえれば皆さんに喜んでいただけると考えた。

さらに遺言書を書き、死後に残った不動産は国連のユニセフに寄付して世界の恵まれない子供たちのために使うこと。自分の遺体はそのまま妙光寺に運ぶところまで弁護士に依頼する。その後の葬儀は妙光寺に生前契約してある、と決めた。

―今の気持ち―

「智子が亡くなって2年半ですが、辛くもないし悲しくもない。ただただ寂しい。世間で言う老々介護なんて悲惨なことにならなくてよかった。とても穏やかに逝ってくれたことがとても嬉しい。彼女は菩薩様だと今でも思っています。2人で授戒を受けて戒名を戴いて以来、お経を見よう見まねで読んでいましたが、智子が亡くなってからは、毎日朝晩欠かしません。母が和紙に書かれた大きなカナ文字をたどたどしく読んでいたのが耳に残っているから、私も読めるのだと思います。毎日時間があるから『法華経新講』というお経の解説書を買って読み始めたら、面白くてワクワクしながらいま8割くらいまで進みました。お経ってたとえ話で説かれていてなんて面白いんでしょう。

前寺への寄付は確かに大金かもしれません。子供がいなかったからさせていただけることで、大げさに受け止めないでください。私たちは本当にいろんな方たちに恵まれて生きて来られました。世の中には菩薩様が大勢いらっしゃるんだなって思います。そう言えば昔前寺におられた寺家様(じけさま)、あの方の顔を覚えていますが、五百羅漢のお1人みたいでしたねえ。やさしい方だった。

他は何ともないのですが足がジワジワと弱ってしまい、近くなら運転してどこでも行けますが新潟までは自信がありません。落慶式はせっかくですがご遠慮させてください。巻の姪が迎えに行くから出席しようと言ってくれますがとてもとても。私が拝見するのは私の葬式のときでしょう、ははははは。寂しくなるので智子の遺骨もそれまで一緒にここに置いて、私と一緒に納骨してください」。どこまでも謙虚に穏やかにそれでしっかりと語る。

炊事もこなすし、友人からおかずの差し入れも届く。智子さんの影響で、クラシックから民謡まで音楽が大好きで、最近はすぐ近くの店でカラオケを覚えたという。唄うのは「赤いハンカチ、」「錆びたナイフ」「島唄」。

―最後に―

 妻智子さんの亡きお兄さんの奥さんが河野さん夫婦の1番の理解者で、法事に参列されると昔話に花が咲く。この息子さん2人が著名な建築家で、弟さんは先ごろ新潟駅舎と周辺再開発の設計競技の最優秀賞を受賞された。新幹線と在来線が一体となる新しい新潟駅はこの人の設計になるそうで、「私らが結婚したときはまだ小さかったのに立派になって」と、これまた不思議なご縁にとても喜んでおられた。

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