日蓮宗 角田山妙光寺 角田山妙光寺トップページ
寺報「妙の光」から 最新号 バックナンバー
HOME >> 寺報「妙の光」から >> バックナンバー >> 2003.12〜2013.12 >> 「会員Hさんの歌集」

会員Hさんの歌集

2008年3月号

 

会員のHさん姉弟は東京と神奈川にお住まいですが、ご両親のお墓参りにたびたびおいでになります。新潟に住んでおられたお母さんがご主人の死を期に安穏廟を求め、5年前にそのお母さんも亡くなられました。先々新潟に戻る予定もないことから、新潟市内の思い出の家の処分を決断、このたびすべてが完了したことの墓前報告にこられました。その際いただいた「挽歌・新潟」と題された手書きの小さな歌集に心打たれましたので、ご紹介させていただきます。50代前半の弟さんの作です。

挽歌・新潟 ー21首ー

新潟で生まれ、育ちました。そのうち中学1年から高校卒業までの6年間を過ごし、その後の約30年少々は常に「新潟の実家」としていた家を、先日処分しました。父と母を共に見送り、誰も住むことがなくなった家を7年近くも放っておいた末の、ようやくの決心でした。

今年の正月明けからほぼ毎週のように週末に新潟に帰り、家財の移動や処分にあたりました。いろいろと溜め込んだものをひっくり返すうちに、父母の最期に際して詠み散らした拙い歌稿が目にとまりました。今回の家の納めに際してのものも加え7首づつ、計21首を、自分の中での一つの記念としてまとめてみました。



父の最期となった冬は、新潟でも久しぶりの雪の多い、寒い冬だった。

咳を弱み痰切れぬ父の背をなでて吹雪をさまる街を眺むる

数え切れないくらい往復した上越新幹線の冬、上越国境清水トンネルを境に景色が一変する。

国境を越えて陽射しの憎らしき父の温みを掌に覚ゆのみ

父の看取りの時は、母が一人で頑張った。私はまだ全然「お客さん」だった。

付添に馳せし息子の帰るさに土産持たせる母のいじらし

病床を動けぬ父が吾が背に金はあるかと問うて見送る

酒が好きだった。別に何を喋るわけでもないが、息子と共にする晩酌は悪い気分ではなかったようだ。

もはや父と交わすあたわぬ晩酌をひとり夜汽車の窓に映して

父の人生の細部を存外知らない。私が知るおぼろげなアウトラインの中がどんな彩りだったか、もう誰も知らない。

病み疲れ黄色い躰投げ出せる父はこの地に生まれ死ぬるか

この年の私の賀状に添えたスケッチに、私は《ハジメテユキヲミタヒノコト》と題をつけている。

新潟の白き凍野に育ちいし父の最後の正月は雪

一九九五、〇一、二三 父ヲ送ル



癌を患い入院の母を見舞う行脚は半年続いた。越後平野は水墨画のような冬景色から植田の緑滴る美しさに変わった。

山の端に消えいるまでの橙の夕陽田面に溶ける五月よ

母は聡明な人だったが、末期には支離滅裂なもの言いが混じるようになった。「あちらの世界」に半分入っていると思った。

三日月を仰ぐ上越国境彼岸此岸の差のいかばかり

あまり苦しまず眠れた朝、「今日はハナマル」と言って喜んでいた。母の稚気。

一日の無事平穏を感謝してハナマルと言う病院の朝

母が歌を口ずさむ時、唱歌する女学生の面影を感じた。その声が癌末期の凄絶な痛みに抗う。夜中の病室に響く絶叫、戦い。

全力を搾りて放つ裏声のソプラノの叫び生きる証と

亡くなる一週間前、奇跡的な小康を得た。病院近くの信濃川畔の遊歩道に、母を車椅子に乗せ散歩に出た。

目の前を今過ぎしジョガーはやあなたゆるゆる続く母と吾の時間

口ずさむ歌のなどかは知らねども母を和ます五月の川風

初夏の午後、わずか30分足らずの、夢のような時間だった。覚めずにいたかった。

病む母にあまりに広き空のあり車椅子押す信濃川土手

二〇〇一、〇六、〇二 母ヲ送ル



暖かかったこの冬の新潟だが、夜中はさすがに冷え込んでくる。片付けは遅々として進まない。

明日はもう空っぽになるこの部屋のストーブがまた給油求める

子連れで帰省する度に、母は「大きくなったね、どれ」といって孫の背丈を採っていた。姉の息子はもう成人した。

孫の背丈をペンで記した柱あり下にゆくほど薄らいでいく

母の遺品には、趣味の道具材料に混じって、姉や私の幼時からの手紙・絵・制服などが山のようにあった。

捨てることの苦手な母の抽斗に革・糸・端布・わたし等の時間

父の古いアルバム。黒い台紙に若気の台詞が墨で記されている。黒地に黒字は判読多労。思い入れの濃さと含羞。

アルバムに若き書き込み墨の跡父と語った記憶は幽か

極く狭い庭だが母は丹精していた。私はほとんど手伝ったことがない。最初で最後の手伝いが、鉢を空け土に戻すこと。

たらちねの母が育てし花鉢を擲てば雪薄く降り積む

さようならタモの木藤の木ジョウロスコップ数多の花鉢 母の庭よ

新潟の浜辺の多くに松の防砂林がある。松林を抜ける風の音に悠久を感じる。淋しげで、懐かしい。

幼より淋しく聞きし松籟が父母の墓守る故郷新潟

二〇〇八、〇二、〇九 家ヲ送ル



補遺  姉 詠 ( 弟 斧正 )

「あっ椿!」山の斜面の華やぎにここでいいよと母の声する

父の骨その上に撒く母の骨お待ちどうさまと弟が言う

合否待つ十五の春に植えし木蓮さよならの今日も新しき芽のあり

古い写真そう記されしひと括り若きふたり父母(ふた)の時代しまわれており

  道順案内 連絡窓口 リンク