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誌上法話 厄年
 「今信心と宗教或いは火のごとく信ずる人もあり。或いは水の如く信ずる人もあり。(中略)水のごとくと申すはいつも退せず信ずるなり」
(日蓮聖人『上野殿ご返事』) 

2015年3月号

小川英爾


素朴な信頼関係
 毎月の命日に寺からお経に伺うことを『月回向』といい、妙光寺でも多くのお宅に伺っています。県内のあるお寺の酒好きな老住職は、村内を徒歩での『月回向』回りが日課でした。その日あるお宅が不在で、仏壇の前にはお布施と脇に1杯のコップ酒がお供えしてありました。「留守にしますがお経の後で飲んでください」という心配りです。
 夕方そのお宅からお寺に電話がありました。奥様に「ご住職今日来ていただけたのですよね? お酒のコップは空でしたが、お布施は置いたままでしたので…。」事態は想像いただけると思いますが、実話です。
 鍵を掛けずに留守にして仏壇にお布施が置いてあるお宅は、農村部では今でも普通にあります。世知辛い世の中で空き巣も考えず、お布施を置きっぱなしという、素朴に人を信ずる行為に心がなごみます。

なじみにくい宗教という言葉
 一般に使う『宗教』は「宗とすべき教え(根本となる教え)」の意味ですが、明治時代に英語のレリジョンを訳した言葉です。それは一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)を指す言葉なので、日本ではなじまないから変えるべきだという議論が研究者にあるそうです。
 確かにオウム事件以降、特に宗教というと狂信的なイメージがわいてきます。昨今の一部イスラム教過激派の言動とも結びついて恐怖心すら伴いかねません。
 前述の素朴な信頼関係を、イメージしてみましょう。母と子の間には自然に信が育ちます。夫婦間は愛情だけでは駄目で、信頼関係があってこそ長続きするものではないでしょうか。お互いの努力で信頼関係を築く、ここから生きる力が生まれます。

もともとは『信心』だった
 明治以前は「自分の心に何かを信じる」というところから、信心といわれていました。日蓮聖人も「信心は特別なことではなく、妻が夫を愛し、夫が妻に命を惜しまぬように、親子が育み離れないようなもの。この関係のように、真心こめてお題目を唱え祈ることが信心だ」と遺されています。
 そして冒頭のお言葉では、「説法を聞いた直後に火のように熱心になる人は冷めやすい。水のように信じる人は退転することがない」と説かれました。
 「私は無宗教です」と言う前に、まずは人を信頼する、信頼される関係のなかで育まれる信≠基本に据えて、悩み苦しんだとき私の心の拠りどころは?と考えてみてください。そこに応えられる妙光寺でありたいと考えています。

 
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