日蓮宗 角田山妙光寺 角田山妙光寺トップページ
寺報「妙の光」から 最新号 バックナンバー
HOME >> 寺報「妙の光」から >> バックナンバー >> 「フェスティバル安穏」25周年

「フェスティバル安穏」25周年
25回めぐった妙光寺の夏を、井上治代さんとともに振り返る

2014年9月号

新倉理恵子

毎年8月最後の土曜日に、妙光寺では「フェスティバル安穏」(5年前からは「送り盆」と改称)という大きな行事を行ってきました。「フェスティバル」は今年8月30日で、記念すべき25回目を迎えました。第1回から「フェスティバル安穏」を妙光寺と共催してきたのが井上治代さんです。井上さんとともに、25年の歴史を振り返ります。

井上 治代さん
東洋大学教授・NPO法人エンディングセンター理事長

内藤昭栄さん

1989年、井上治代さんが、「安穏廟」を始めた小川住職と出会う

1989年のある日、小川住職は大宮市の喫茶店で井上治代さん(現東洋大学教授)と待ち合わせをしました。井上さんは十年前に母を亡くしお墓を買おうとしたとき、自分は墓を購入しても継承していくことができないと知りました。井上さんが結婚して、姓が変わっていたからです。日本の古い「イエ制度」はなくなったと思いこんでいた井上さんが、初めて出会った「イエ制度」でした。それから数年、井上さんはお墓の問題を取材し続け『現代お墓事情』(1990年3月出版)という本をまとめようとしていました。そして『週刊朝日』の記事で妙光寺の安穏廟のことを知り、小川住職の話を聞くことにしたのです。

その頃の妙光寺は安穏廟をつくった直後で、安穏会員はまだほとんどいませんでした。一方の井上さんは、檀家制度の中のお墓だけでは時代に合わないという確信を深めていたものの、具体的な展望は見出せていませんでした。井上さんは小川住職と話して「安穏廟は理想の墓の形」と確信しました。新しい葬送のあり方を探していた2人が期せずして出会ったところから、「フェスティバル安穏」は始まりました。その頃の2人は、まだ30代でした。

1990年夏「第1回フェスティバル安穏」は、葬送をテーマにした日本初のイベント

25年前の8月25・26日、「第1回フェスティバル安穏」が妙光寺で行われました。井上さんにとっては、数ヶ月前に立ち上げた市民団体「21世紀の結縁と墓を考える会」(縁21)の発足記念行事でもありました。井上さんは「縁21」東京事務所で参加申し込みを受け付けました。当日の参加者は約三百人、北海道や九州からもたくさんの人たちが妙光寺に集まりました。葬送をテーマに掲げた「第1回フェスティバル安穏」は、死をタブー視してきた日本では初めての試みだったのです。

25日は、オープニングで参加者の想いが語られ、その後「日米お墓事情」のスライド上映、「安穏廟説明会」が行われました。夕方5時からは、岩屋で第1回「安穏法会」が、シンセサイザーや三味線とのコラボレーションで行われました。また夕闇せまる頃には、安穏廟前でも千本のロウソクに囲まれて法要が営まれました。「安穏浄土」のタイトルで行われたこの法要は、荘厳なセレモニーとなりました。参加者はそれぞれ近隣の民宿に泊まり、翌26日午前中は本堂でシンポジウムが行われ、井上さんと小川住職の他4人のゲストが各々の立場から発言しました。参加者からも活発な発言がありました。「散骨を行いたい」「子どもを頼らない墓をつくりたい」という一般参加者や、葬儀業界、石材店の人たちなど、葬送をめぐるすべての課題が共有されたイベントでした。

この時期、井上さんと小川住職のもとにはマスコミが殺到しました。1990年の夏から秋にかけて井上さんが受けた取材は約70本、各地での講演も20回以上になります。小川住職も多くのマスコミ取材を受け、「ある種のパニック状態だった」と檀徒総代大滝剛さんは語っています。

「フェスティバル安穏」は、墓(死)をとおして生を語り合う場

1999年までの「フェスティバル」は、1泊2日の日程で行いました。第2回のゲストは、樋口恵子さん(東京家政大学教授)です。’60年代から家族のあり方について多くの発言をしてきた樋口さんは、第10回にもゲストとして参加しています。第4回は宗教学者の山折哲雄さん、第7回は映画監督の新藤兼人さん、第9回はノンフィクション作家の柳田邦男さんがゲストでした。各回のテーマも、「葬送の自由の声に仏教はどう応えるか」(第4回)、「人は家族以外に老後、死後を託せるか」(第5回)、「死を受け入れて生きるとは」(第9回)など、20年後の今も問われ続けているものばかりです。「死を真正面から受け入れ、残された時をいかに有意義に生きるか、霧が晴れるような気分で聞かせていただきました。」(第9回参加者の声)そして井上さんには「葬送と墓の問題を社会に発信できた手応え」がありました。

第11回(2000年)新本堂上棟式を経て

2000年の「フェスティバル」では新本堂上棟式が行われ、この年から現行の1日日程となりました。本堂の改築は、小川住職の悲願でした。改築によって妙光寺には、本堂と院庭をつなぐ数百人が集える空間ができました。新しい空間の完成は、「フェスティバル」の形をおのずと変えていきました。それまでは、会場を移して行われていた交流パーティーが境内で行われるようになり、第13回(2002年)には、院庭に舞台を作って、劇団希望舞台の演劇『釈迦内棺唄』が上演されました。院庭では、その後も様々な催しが行われています。

2010年「フェスィバル安穏」は「妙光寺の送り盆」へ

第21回(2010年)から、「フェスティバル安穏」は「妙光寺の送り盆」と名前をあらためて、新しい出発をしました。「送り盆」のイメージは、妙光寺という名のひとつの村のお祭りです。従来と変わらない法要や院庭でのトークの他に、カフェや手作りコーナー、大道芸などを同時並行で行い、老若男女が集えるイベントになりました。

人々は「フェスティバル安穏」で新しい縁を結ぶ

「フェスティバル安穏」は、第一回から地縁・血縁に代わる新しい縁≠フ核になるつどいを目指してきました。初期の「フェスティバル」は、井上さんと小川住職、そして協力するジャーナリストや研究者が企画を考えました。当日は地元の檀徒さんたちが設営をし、井上さんら「縁21」(2000年7月「エンディングセンター」と改称)のボランティアが運営を担当し、全国から集まった僧侶たちが法要を行います。最初の頃の檀徒・ボランティア・僧侶の関係は、ややぎごちないものでした。終了後の打ち上げも、別々の部屋で行ったといいます。しかし、ともに汗を流していく中で、立場を超えた交流が生まれるようになりました。「小川さんの持ち味のどんな人とも分け隔てなく接する姿勢は、その中でますます磨かれていったと思う。フェスティバルという場が、小川さんを創ったんだよね。」井上さんは感慨深げです。

「フェスティバル」当日の運営スタッフは100人を超えますが、現在では終了後の打ち上げも全員が大広間に集まって楽しく行います。スタッフの中には安穏会員も増え、檀徒でも会員でもないけれどなんとなく妙光寺が好きだという人もたくさんいます。夏の妙光寺で連帯感が生まれ、新しい縁がたくさん結ばれたのです。井上さんも「25年を通じて、一生ものの仲間を得たことが何よりの財産。近年は次世代が参画してきたことを、力強く感じる。」と笑顔で語ってくれました。

「安穏廟の寺」から、「墓に入るまでの時間を充実させる寺」へ

「私の目標は、継承を必要としない墓を全国につくり、それが皆の当たり前の選択肢になることだった。それは実現したと思う。これからの妙光寺に期待することは、寺が持っている福祉°@能の復権だ。」と井上さんは言います。近年は人生の終点であるお墓だけでなく、人生を終える旅の行程に大きな関心が寄せられています。『妙光寺版・終活ノート』は、その答えの一つでした。井上さんは「仏教国では女性僧侶が、福祉の現場で非常に活躍している。次の住職の良恵さんには、女性の視点で新しい寺づくりをしていってほしい。」と熱く期待を語ってくださいました。

*「フェスティバル」ボランティアスタッフは、随時募集しています。妙光寺にお声かけください。

  道順案内 連絡窓口 リンク