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身延山と日蓮聖人

2012年9月号

小川英爾

『たとへ何処いずくにて死に候とも、墓をば身延の山にたてさせたまえ。
未来際みらいさいまでも心は身延の山に住むべく候』(日蓮聖人ご遺文)

霊山身延

来年3月、妙光寺開創七百年法要を催させていただく身延山久遠寺(山梨県)は、日蓮聖人ご自身がお墓を建てて欲しいと言い遺された、日蓮宗の総本山です。亡くなられた後も、未来にわたり日蓮聖人の心が住み続ける所と言われています。

日蓮聖人は鎌倉幕府に対し、お釈迦様の教えの根幹である『法華経』によって国を治めるよう進言されたことで、佐渡ヶ島流罪など幾多の難に遭われました。そして「三度諌めて用いられずば去れ」との中国の故事にならい、鎌倉を離れます。60年のご生涯で、52才からの9年間を心安らかに過ごされた地が、身延山でした。熱心な信者であった領主の波木井公がお迎えし、日蓮聖人は鷹取山の麓を草庵の地に選ばれたのです。

といっても世に言う隠棲とは違い、これまで以上に弟子や信徒の育成に力を注がれました。「お釈迦様が『法華経』を説かれたインドの霊鷲山りょうじゅせんに来たようだ。その『法華経』を中国の隋の時代、国師と仰がれた天台大師がその『法華経』を解説された天台山にも似ている。私自身はお釈迦様でも天台大師でもないが、昼夜に『法華経』を読み、天台大師の教えを弟子に語り、ここは霊鷲山のようであり、天台山と同じところとも言える。」

これほどまでに身延山は霊山だと讃えられています。「それは『法華経』の行者日蓮が多くの月日を送り、心の底から読み込んだ『法華経』のご利益が積もり積もっているからだ」とも。

厳しい自然

しかし、精神的に安住できる地ではあっても、山深い沢筋の地形です。日当たりも悪く、冬の寒さは尋常ではなかった様子が書き記されています。各地の信者から供養された食糧はあっても、大勢の弟子や信者たちですべて分け合って食べるのですから、その食事は相当に粗末でした。

日蓮聖人は、9年の間に数度の病に伏せられ、徐々に衰弱していきました。そして周囲の熱心な勧めで、60歳の9月に常陸の湯(現水戸市加倉井)に湯治に向かわれました。しかし途中、現東京大田区池上の池上宗仲公のお屋敷に休まれた後、臥せてしまわれ、弘安5年(1282)10月13日にお亡くなりになられました。ここが今の池上本門寺であり、大坊本行寺です。

精神息づく地で

池上で火葬された遺骨が身延山に移され、四十九日忌に当たる12月2日、葬儀が行われました。やがてお墓が建てられ、お守りする弟子が決められ、堂宇の整備が進められてきたのです。深い山を切り開いての工事は難工事だったことが偲ばれます。またこれまでしばしば火災にも遭い、そのたびに復興を繰り返してきました。

来年の妙光寺開創七百年大法要のため、特別に開放していただく大本堂は、日蓮聖人七百年遠忌を記念して昭和56年に建立されました。間口32m、奥行43mと壮大です。天井の龍の絵は、加山又造画伯が16m四方に墨と金箔で描かれたもので、圧倒される迫力があります。

妙光寺が700年目に当たる来年は、日蓮聖人滅後731年目です。今に伝わるその気概と精神を、その霊気とともにぜひ体感してください。

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