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「我れ深く汝らを敬う」 妙法蓮華経・常不軽菩薩品第二十

2012年3月号

小川英爾

先日、探し物の途中で古いタンスの中から偶然見つけた一幅の書があった。『我深敬汝等 日琢』とある。日琢とは故綱脇龍妙師のことだとすぐに思い出した。50年余り前、先代住職が敬愛していた綱脇師を妙光寺にお迎えした際に書かれたものと思われる。なぜ表具されずにいたのかわからない。早速表具店に依頼した。綱脇師は当時80歳を越していたが、きりりとした風貌で、文字どおり慈愛溢れる笑顔の持ち主だった。当時10歳前後だった私は父に促され、綱脇師に、頭をなでていただいた。その記憶は、今もしっかり残っている。

綱脇師は明治時代後期、当時は治療法のない伝染病として恐れられたらい病の患者を救済する施設を身延山に作られたことで知られている。当時らい病は遺伝するとか血統だと信じ込まれ、患者の出た家族は不名誉で周囲からも忌避されるので、患者は家族からも見放された。社会福祉のない時代のこと、患者は各地の大きな寺の門前に集まり、参詣の信者に物乞いをして生き、死を待つしかすべはなかった。

僧侶の修行を終えたばかりで、その報告のお参りに身延山に来た若き綱脇師は、門前に集まった患者を見過ごすことが出来なかった。思い悩んだ末救済に立ち上がり、その生涯を費やすことになった。時の身延山法主(総本山の住職)の力を得、患者たちが掘っ立て小屋を建てて雨露をしのいでいた身延川のほとりに、仮の病室を開設し13名を収容したのが明治39年のこと。こうして日本最初の救らい患者施設は、先述のお経の文から『身延深敬園』と名づけられた。

施設はできたものの患者の毎日の食事から薬代まで、その全ての運営費用が綱脇師の肩にかかる。偏見による様々な迫害もあるなか必死になって各地を歩き、お寺から信者から浄財を仰ぐ毎日、その苦労は筆舌に尽くしがたかった。やがて時代も変わり、行政の支援も得られ、治療法が開発され病に対する理解も広まり、国立の施設も開設されるようになった。以来60年間で『身延深敬園』では総数千数百名の患者を収容してきた。

お経に、「常不軽菩薩」は出会う人すべてに対し、一切の差別する心を持つこと無く手を合わせ拝むように挨拶したと説かれている。例え石をぶつけてくる人に対しても、「誰もが仏になれる素質を持っている。だから私はあなたを深く敬う。」と言った。徹底した人間尊重、生命尊重の精神である。綱脇師はこのお経の言葉通りにらい病患者に尽くし、昭和45年95歳で仏様の下に旅立たれた。その後施設は救らいの役目を終え、高齢者施設として娘の美智さんに引き継がれている。

私にとってこのお経文の一説は、頭をなでていただいた感触と綱脇師の生涯が重なり合い、いつも心に響いてくる。

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