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第46世旭日苗上人の足跡を訪ねて 

2010年12月号

小川英爾


旭日苗上人

妙光寺の後継争い

明治7年妙光寺では第45代住職の死去を受け、次の住職の地位を巡って檀徒を二分する対立が起きた。五ケ浜村の遠藤本家を中心とする派と割前村の内藤本家を中心とする派が、それぞれに候補者を立てた。結果は妙光寺43代目の弟子で当時41歳の旭日苗上人を推した内藤本家派が負けた。内藤本家派の人たちは責任を取り、代表格だった内藤本家の屋敷の一角に旭日苗上人の隠居寺を設けて迎えようとした。しかし旭上人は隠居する年齢でもなく、そもそもそのような人物ではなかった。旭日苗上人は妙光寺の46世と記録されてはいるものの、加歴といって名誉住職のようなもので実際には就任しなかった。

旭上人はその後、京都の本山の住職を経て宗門の高位に就くことになった。しかしこうしたいきさつなど意に介することなく幾度か妙光寺を訪ね、また生家の二箇村・内藤家の衰退を心配する手紙を親戚に数多く送るなど、郷里に対する思いは深かった。

用意された隠居寺は後々「割前説教所」と称して妙光寺の役僧が住み、妙光寺の出張所の形で昭和50年代まで続いてきたが、無住となり関係者と相談のうえ処分した。ご記憶の方も多いと思う。

ちなみに勝った派の推した日久上人が47世として就任、15年間在籍して亡くなったと記録にある。旭上人より年上だったことが想像され、また生家が五ケ浜遠藤家とあるから後継住職とはいえ互いに身内を推す争いで、力関係が結果を決めたのかも知れない。

旭日苗上人の生いたち

旭上人は江戸末期の天保4年(1833)、旧巻町の仁箇村の内藤家に生れた。幼くして長岡の武士の家に養子になったが体が弱くて戻される。その後13歳で妙光寺43世日瞻上人の弟子になった。この日瞻上人は生涯の説法一万席を越す当時の高僧と謳われた人で、その生まれが同じ内藤家だったから弟子入りはその縁によるものだ。

やがて現在の千葉県にある檀林(当時の僧侶の教育機関)に進む。修行の後は各地の住職、なかでも佐賀の本山光勝寺、京都の本山妙覚寺、本圀寺二カ寺の住職を勤め、その軽妙洒脱な説教が聴く人を引き付けてやまない魅力で全国に知られた。晩年は日蓮宗のトップである管長にまでなるなど、明治時代に活躍した日蓮宗の逸材と称された。大正5年 (1916)8月8日84歳で亡くなり、自身で用意した京都と妙光寺の墓に眠る。

思いは海外へ

旭上人が当時の宗門の逸材と言われたのは、その生涯で海外渡航歴40数回、現在の中国、韓国はもとより、インド、アメリカにもその足跡を残し各地で布教して歩いたことによる。自身が行けないときは弟子を派遣して、その地に寺を開く基礎を作った。明治から大正にかけての時代、しかも60才を過ぎて宗門の要職を引退してからのことで、上海往復を年に4回という年もあり、その活力には驚くばかりだ。

この時代の日本国の対外政策、ことにアジアに対しては侵略戦争として反省すべきことが多い。当時の韓国で4カ所、中国の上海で1カ所開いた寺は、戦争中に接収されて今はない。しかし大正2年に弟子を派遣してアメリカのロサンゼルスで最初に開いた教会堂(寺になる前の小規模なお堂)は、現在まで日蓮宗ロサンゼルス教会として活動している。そのロサンゼルスへは83歳で出かけ、在米日本人信者から大歓迎されたとある

インドに渡ったのは68歳だった。ベトナムからカルカッタ、ボンベイとインド各地を歩き、お釈迦様が悟りを開いたブッダガヤのある寺には旭日苗上人が寄付した時計が今も掛っていると聞いた。「68歳の年インドへ向かって出帆の日は8月21日でちょうど師匠の祥月命日に当たり、しかも師匠の亡くなった歳と自分は同年であった」と記し、「この意義あるご縁で再度インドに渡り寺の二つ三つを開くつもりだった。しかし、長崎まで行ったところで京都の本山・本圀寺住職をやれと、電報で呼び返されて叶わなかったことが生涯の心残り」とも語っている。

その痩身で飄々とした風貌、語りは気宇壮大で洒脱。当時トレードマークの白いあごひげを真似る僧侶が全国に広がり、大正天皇の葬儀に集まったあごひげの僧侶が多くて不謹慎だ問題になり、急きょ式場の外で剃り落とさせた。そんな逸話が残るほど魅力的な人物だった。

海外布教の素志

「私が海外布教の志を懐いたのは20歳のころからであった。いよいよ実地に着手したのはさきに言う通り61歳であった。20歳の年、函館の実行寺で年を越したことがある。そのときは自分の放浪時代でちょうどそのころ函館へ来て教会を持っていたロシア国キリスト教の牧師と懇意となり、その牧師から海外の事情を聞き、得るところがあった。牧師からロシア国に来てはどうかと勧められることもあった」

アメリカへ (『日宗新報』大正4年9月5日号から)

大正4年夏、すでに管長職を辞し本圀寺を隠居していた旭日苗上人は、おりからの万博に合わせて開催されるサンフランシスコ万国仏教大会への出席を兼ね、自ら北米・ハワイに布教に赴くことになった。7月10日、横浜出帆の天洋丸に乗船。(中略)一行の中でも日本各宗代表として参列する曹洞宗の日置師の豊類肥大なる体躯と、それと対照的に白ひげを長く垂らした旭日苗上人の痩身とが、ひときわ内外人の目を引いた。旭日苗師はこのとき83歳の高齢であったが、驚くべきことに一人の従者も連れておらず、しかも前管長ながら三等客船であった。日置師はこのとき69歳。すでに後年の永平寺貫主・曹洞宗管長の貫禄を備えていた。日置師は「あなたはご老体なのにお一人ですか」と尋ねた。旭日苗上人は「はい。老年であの世へ一人で行く支度をせねばなりませんので」と答えた。

船は7月26日、サンフランシスコに安着。同地小川ホテルで一行の歓迎会が行われた後、旭日苗師はロサンゼルス教会から迎えに来ていた30余人の信徒の案内で、ロサンゼルス万博を鑑賞した。

アメリカで聴衆を魅了 (『日本仏教渡米史』から)

7月29、30日の両夜、ロサンゼルスの市公会堂にて、東西本願寺・高野山・日蓮宗の四教会連合主催のもと、日置黙仙・山上曹源・旭日苗の三主賓による歓迎大講演会が開かれた。30日夜、旭日苗上人には「忍耐」の題の講演が予定されていたが、一行に遅れてロサンゼルスに着いたため前日の講演を欠席しており、何分80歳を過ぎた老年で、その上この日はサンフランシスコに入れ歯を忘れて来ていた。そこで関係者は、ほんの顔見せ程度の挨拶で終わると思っていた。ところが開口一番「私はアメリカという所は、何もかも日本と反対であると聞きました。来てみると果たしてそうで、今晩は夜なのに旭が出ました」と始め、ユーモアに富んだ大広長舌を延々と振るい、その鶴のように上品な風采とあいまって、一千余人の聴衆をすっかり魅了してしまった。

上海本圀寺跡訪問

通りに面した建物の外観

内部を案内してくれた親切な住人

以来100年が過ぎているが、少し前までは妙光寺でも旭上人のことを懐かしそうに語る高齢檀徒がかなりおられた。以前に巻町の偉人として郷土資料館で遺品を展示する展覧会が開かれ、お手伝いをしたこともある。そしてこの10月、縁あって檀信徒の方々と上海を訪ねる機会を得た(この経緯は行事報告ページで)。目的の一つは旭日苗上人が明治32年69歳の時に単身上海に渡り、中国大陸で最初に開いた日蓮宗寺院があって、大正11年に後任者が建て替えた寺が現存するとの話を聞き、訪問したのだった。

個人的に5年前初めて訪ねたときは、内部がアパートに転用されていたものの当時の建物がそのまま残っていた。その後上海万博による再開発で壊されると聞いていたが、その計画は延期になったとかで通りに面した街の一角に当時のままあった。今回も親切なアパートの住人のご好意で、内部の隅々まで見せていただくことができた。天上や欄間など和風の作りが随所に残り、100年の時間を感じさせない何かがあって心が震えた。

一緒に旅した方たちも同様な感想を持たれたようで、こんな時代もあったこと、こんな人物もいたことをお伝えしたくてご紹介しました。(引用文ほか参考に都守基一氏編集発行『上海本圀寺略史』2005年を使用しました)

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