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難病に侵されて

2010年9月号

小川英爾

河村祐治さん(62歳)は妙光寺に近い村で、檀徒の農家の6人兄姉の末っ子に生まれた。中学を終えると先に行った4歳上の兄を頼って、東京で親戚が営む中華料理店の見習いに入った。やがて独立して都内に店を構え、郷里の実家に近い村の由美子さんと結婚、一人息子も生まれた。その息子はコンピューター関係の仕事に就いたので、店は夫婦で切り盛りしてきた。実家の父親は20年程前に亡くなり、元気だった母親も弱ってきたので、ときおり里帰りしては顔を見に来ていた頃だった。長兄が弟二人に「お前たちもいずれは墓が要るんだから、妙光寺に求めたらどうか」と声をかけた。「妻も田舎の人だしやっぱりこっちがいいな」と兄弟で安穏廟に決めた。

その河村さん、とにかく仕事熱心で料理に対する思いも人一倍強く、心を込めて作ることが大事と言うのが口癖だった。妻の由美子さんが「うちの人の作るチャーハンはどこにも負けない絶品ですよ。チャーハンは強い火力であの大鍋を振るからすごい力が要るんです。そこで絶対に手を抜かないから、一度冷えてしまってもレンジでチンするとまた出来立ての味がするくらい旨いんです」と絶賛する。

そんな味と人柄だから常連客も多い。以前近くに住んでいて実家に戻った人が上京のたびに、「大将の味が忘れられない」と言って必ず寄ってくれた。仕事の帰りが遅くなってもここで食べたいと言って、いつも閉店間際に飛び込んでくる近所の独身男性もいた。そんなときに残り物でもあると、さらにひと手間加えてお土産に持たせたりした。店に立つ由美子さんも明るく気さくに声をかけるせいで、いつしか二人は客から「大将」「おかみさん」と呼ばれるようになった。

一昨年秋、河村さんは自分の体の異変に気がついた。大鍋を振ってきた腕に力が入らず、腕を上げるのすら辛くなってきたのだ。自転車で自宅から店まで行くいつもの何気ない道で転んで顔を切ったのも、その異変のせいだと感じた。診察を受けてMRIだ、CTだと検査しても異常なしとでた。でも河村さんはどこかおかしいと思った。やがて寝ていても胸が重く感じられて、昼寝も椅子でするようになった。ある常連客の勧めで近くにある整形外科の開業医を受診、その先生から息子が大学病院の勤務医で土曜日にここで診察するから診てもらった方がいいと言われた。診察を受けたら即、「大学病院の○○先生に紹介状を書くからすぐに行ってください」と言われた。

検査を重ねた末、昨年の年明けになって「筋委縮性側策硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう・通称ALS)」と診断された。10万人に5人程が罹る、原因も治療法も正確には不明の難病とされている。全身の筋肉が低下して、やがて自力で呼吸も飲み込むこともできなくなってしまう。さらに話すこともできなくなるが、その一方で脳や眼球の働きは正常で、意識も判断力もしっかりしているため、一層本人は辛い。診断が下ったとき、医師から「もしもの時は延命処置をしますか?」と聞かれ、事の重大さを知った。ただちに店を閉め、後始末を同業の兄が来て全てやってくれた。

この年の1月、母が逝った。97才の大往生だった。葬式に出て、3月の四十九日忌法要にも参列できたが、納骨に墓地まで行く体力はなかった。東京に戻って間もないある日、突然意識を失い救急車で掛かり付けの病院に運ばれた。由美子さんが遅れて駆けつけると、若い研修中の女医さんが「オジちゃん、オジちゃん、しっかりして!」と耳元で必死に声を掛けていた。店の常連客の女性だった。「この病院で研修中なんだけど偶然オジちゃんが運ばれるって聞いて。意識はないけど耳は聞こえているから一生懸命に呼んで!」と言う。皆で一所懸命に呼んだらスーと目を開き、意識が戻った。これを機に急きょ人工呼吸器を付けることになった。これは延命処置になるので、拒否する患者も多い。

いま河村さんはあのとき付けなければ楽に逝けたのにと思うこともあるという。しかし長男が絶対に反対したのだった。入院中に担当ではない外科の医師がよく顔を出してくれた。最初はなぜ?と思ったのだが、いつも閉店間際に飛び込んできた近所に住む独身男性だった。当時は病院の事務員さんと思いこんでいた。たびたび病室に来てはオジちゃんと声をかけてくれるので、本当に心強かったという。研修中の女医さんも研修最後の日に玄関でバッタリ会い、由美子さんはお礼を言うことができた。「他のお客さんに病院内で声をかけられたこともあります。夫の人柄のせいですね、ありがたいことです」と由美子さん。

縁と言えば最初に開いた店は別の所で、日蓮宗系列の立正大学の近くだった。だから客の学生の中にはお寺の息子もいて、「俺の新潟の実家は妙光寺の檀家だよ」「そうですか、角田の妙光寺さんなら知ってます」などという気さくな会話も多かった。当時まだ幼かった長男は俗にいう疳の虫が強く、発作がおきると白目をむいてあばれるので困っていた。それを聞いた学生たちが「それなら荒行を積んでお加持がよく効く先輩がいます」となった。普段は地方に住んでいるのだが、偶然にも用具を一式持って来ているという。ワラにもすがる思いで頼みこんで、河村さんのアパートに即席の祭壇を設けてお祓いをしてもらった。その場で息子の指先から白い物が出て、以来ピタリと症状が納まった。「あのときは嬉しかった。ご縁を感じましたね」と由美子さんは思い出す。

退院後は幸いにも症状が落ち着いて、訪問医療の先生と訪問看護師の支援を受けて自宅で過ごしている。しかし痰の吸引はじめ日常の介護は由美子さんの手にかかり、休日は息子さんが代わってお世話する。会話はかろうじて聞こえる声か、目で知らせる。または文字盤を指して意思を伝える。それでも河村さんの周りは笑い声が絶えない。冗談を頻発するのだ。だから訪問看護の研修生の受け入れをよく頼まれる。緊張している若い研修生に「田舎のご両親にときどきメールして近況報告しなさいよ。そうすればお父さんも安心して晩酌がよく飲メール、なんてね。」こう話す由美子さんは「私にもいつも言ってくれるんです、愛してるよって。」ニコニコ笑いながら大きな声で話す目には涙が滲んでいた。

今回は、患者の家族の負担を軽減するための短期入院中に、郷里を訪ねたという。「この機会にたまに田舎に行って、皆の元気な顔を見てきて俺に報告してくれ。そうしたら俺も元気が出るよ」という河村さんの言葉だった。それともうひとつ「田舎で暮らしたいなって本人が言います。でも医療サービスのことを考えると無理じゃない?って言いました。そうかそれならせめて、葬式は妙光寺に行ってご前様にしてもらいたいな。あとは家族やいつかは孫が揃って時々墓に参ってもらいたい。それが望みだって、言うんです。まだ若いけどあの人は十分に一所懸命生きてきました。悔いがないと言うのも本心です。ご前様、その節はよろしくお願いします。」きっぱりとした由美子さんの言葉に、同席した実家の兄嫁が「祐冶も本当に明るく世話好きで人に好かれる人だけど、あなたのようなしっかりした奥さんがいてくれたからこそだよね。ありがとう」目頭を押さえながら脇で言った。

*本人夫妻の快諾で実名のままです。掲載をお願いした際の返信に「多くの方の支援をいただきながら闘病生活を送っています。家の中は笑い声が絶えないですよ!」とありました。

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