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ベトナムの風

2005年3月号

小川英爾

 休暇をとってベトナムに行ってきた。友人たちと去年の忘年会の席上、忙しい毎日を少し休んで近くて暖かい所に行きたいねという話で決まった。超多忙な新聞記者二人、大学の先生に後輩の住職と私の五人が集まった。仕事を終えて集合した成田空港を午後六時に発って六時間、時差二時間のホーチミン(旧サイゴン)に午後十時到着。実質三日間の滞在が始まった。
  ベトナムといえばベトナム戦争と最近経済発展めざましい社会主義の国、くらいしか知らずにやってきた。朝の街に出て驚いたのが、道一杯にあふれるほど走るバイクの数。その多くが昔懐かしいホンダのカブという五十CCのあれ。聞けば十年ほど前までは自転車が多かったのが、今はバイクが中心でしかも五十CC以下は免許が要らない。市内ではヘルメットも義務着けられていないとか。女性も多いが話に聞いた民族衣装のアオザイを着た人はあまりなく、服装は男女とも日本と変らない。定員は二人(?)だが中には一家四人が乗っている姿もある。片側二車線の通りを埋め尽くして流れるバイクの中を、車が申し訳なさそうにかきわけて走る風景はどこかユーモラスで心和む風景だった。
  そんな道路で交差点に信号機もあまりなく、たまにあっても守っている感じではない。それに交通整理の警官を一度も見なかった。横断歩道もあるが、ほとんど用を成していない。歩行者はどうやって道路を横断するのか疑問になった。その答えはちょっとした流れの隙を見て歩き出せば、全てのバイクも車も必ず歩行者の手前で静かに止まってくれる。だから恐怖感もないし、急いで渡ろうという気にもならない。歩行者と運転手の不思議な信頼感と絶妙な間合いでなんとなく横断できてしまうのだ。
  ただ車が左折するとき(日本と逆で車は右側通行)は対向車があるから大変で、ごちゃごちゃになるのだがそれもなんとなく出来てしまうから不思議だ。でもやはり事故は多いそうで、夕方食事に行くのに乗ったタクシーが前の乗用車にドスンと追突した。前の車の助手席から降りてきた人が黙ってぶつけられた所を見て、たいしたことなかったのかそのまま車に戻って行ってしまった。その間こちらのタクシー運転手は困ったような顔をしていたが、車も降りず相手と言葉を交わすこともなかった。
  そんな穏やかな不思議な空気が漂っている、というのがベトナムの一番の印象だ。土産物店に入っても観光地に行っても、一応声を掛けてくるが決してしつこさがない。街頭に物売りも物乞いもいるが、これも他のアジアの国に比べて極端に少ない。大都市ホーチミンのサラリーマンの平均月収が二万円というが、本当に皆心穏やかで静かな人々と言う感じだった。泥棒もひったくりも喧嘩も多いから気をつけるようガイドに再三注意されたが、ピンと来なかった。
  それに印象深いのが食事のおいしさだ。元々が中国の文化圏で一時フランスの植民地だった影響で、中国料理とフランス料理の混ざったのがベトナム料理だとういう。そこに新鮮な魚、野菜、果物が豊富にあるからおいしいのは当然ということになろう。東京で言えば銀座通りのおしゃれで中規模なレストランという感じのベトナム料理店で、五人がたらふく食べて飲んで日本円にして一万円に満たなかった。現地感覚ではこれでも十分な値段だろうとは思う。
  一日かけて南のメコン川クルーズというツアーに参加した。これは期待はずれで、小船でメコンデルタにある島に渡り、そこに暮らす人たちの暮らしを見たり果物を食べ娘さんたちの歌を聞くのだが、これがなんとも中途半端。車で二時間近くかけて行き一時間ほどちょこっと観光をして、昼食を食べてまた二時間近くかけてホーチミン市内に戻った。この辺がいかにも社会主義国というか、一所懸命観光客を呼ぼうという感じがしない。それでも経済はかなりの勢いで発展しているという。
  ベトナム戦争の悲惨さを伝える記念館、そして最終日にはひとりで別のツアーに混じって戦争当時の地下トンネルを見学に行った。展示方法はまったく素朴そのものだが、アメリカ軍が村を焼き尽くす光景や、戦車で村人を引きずり走る様子、頭に拳銃を突きつけられて顔が引きつった老婆の姿などなど、痛ましい限りの写真の数々には言葉を失った。さらにジャングルに撒いた枯葉剤で戦争後に奇形で生まれた子供たちは今、成人して施設で働いているという。体が一つで頭が二人の状態で生まれた双子はべトちゃんドクちゃんが日本でも知られているが、別の双子のホルマリン漬けも展示されていて正視できなかった。こうした展示を見ながら戦争の悲惨さを改めて痛感し、現在のイラクに思いをはせた。
  ベトナム戦争の際村人がこもってアメリカ軍と戦った地下トンネルが、クチという村にわずかに残されていて実際に体験できるようになっている。ジャングルの地下二メートルほどに張り巡らされ、その総延長は一六0キロに及んだ。アメリカ軍がべトコンと呼んだ当時の村人は平均身長一五0センチと小柄なうえ、トンネル内部をカンテラの火を頼りにしゃがんで歩くギリギリという狭さ。さらに高温多湿で小さい毒蛇もいたそうで、閉所恐怖症というか大抵の人はものの数分で気が狂いそうな不安感に襲われる感じだ。そんな狭さだから仮にトンネルを見つけられても大柄なアメリカ兵はとても入れなかった。現在は観光用に欧米人も通れるよう広げてあるという。
  地下トンネルに繋がって密林に覆われた半地下式の会議室、台所と食堂、病院、敵の不発弾から武器を作る工場まで備えていた。そこで村人は畑を耕し市を開き、祭りも催して気分転換をはかりながらしぶとく戦い、とうとうアメリカ軍を撤退に追い込んだ。それが今からちょうど三十年前だから当時の村人はまだたくさんいるわけで、一旅行者としてはなんとも複雑な気持ちがする。密林は枯葉剤で完全に消失し、今ようやく日差しが遮れる程度の林に復活しつつあるところだった。
  クチの村からさらに車で一時間半、タイニンの町に本山を持つカオダイ教という百年に満たない歴史の新興宗教団体を訪ねた。これが摩訶不思議な宗教で、仏教、儒教、道教、キリスト教、さらにイスラム教までも取り込んだ教えを持ち、信者が全国に二百万人いるという。ただ一回四十五分のお祈りを日に四回行う厳しさが若者に嫌われて、信者は減り高齢化しているとも。なるほど昼十二時のお祈り時間に合わせて見学させてもらったが、若い人はいなかった。
  長方形ながらイスラム教のモスクを思わせる天井の高い巨大なお堂の中、大理石の床にきちんと整列して座った信者が、中国風音楽の生演奏に会わせて歌のようなお経のような何かを唱えている。衣装がアオザイ風なのだが、なかでも仏教を信じる人、キリスト教を信じる人など五種類の宗教ごとに形と色が異なり、さらにそのなかでも位によって形の違う帽子があったり、そんなガイドの説明を聞いて驚いた。建物の中央にはシンボルだという人の片目が描かれ、柱には原色を使って龍や花が浮き彫りにされている。
  こう説明すると奇妙奇天烈の宗教かと想像されるが、それなぜかまたなんとも心地いいのだ。清潔感があってきれいな信者の衣装、中国風の弦楽器の伴奏に二百人はいるであろう信者の声が高い堂内に柔らかく響く。外は三十度を優に超す暑さなのだが、開け放った窓から風が爽やかに吹き込み、穏やかな雰囲気が本当に心地よく感動に近いものがあった。思えば日本の仏教といえども中国で儒教や道教が混じり、さらに日本の神道に近い習俗もとりいれている。そのうえ日本人はクリスマスもやれば教会で結婚式も挙げるわけだから、こういう混合宗教には抵抗感がないのかもしれない、なんて考えてしまった。機会があれば直接話を聞いてみたいと思いつつ、タイニンの町を後にした。
  いまベトナム人の七割は仏教徒で、わずかにキリスト教も他の宗教もあるそうだ。ベトナム戦争当時アメリカの侵略に対して自分の体にガソリンをかけ、火をつけて死をもって抗議した仏教の僧侶がいた。捨身供養というが、これほど純粋で激しい仏教もいまだに健在なのだろうか。人や街に漂う優しさと、かたや物量で攻めこんだアメリカ軍に打ち勝った精神的な強さと激しさ。僅か正味三日間の観光客としての滞在に過ぎなかったが、なにかベトナムの不思議さが心に残る旅だった。

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