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140年前のご先祖

2013年12月

過疎の村から

妙光寺がある角田浜の隣村五ケ浜ごかはまは、妙光寺とのゆかりも深い歴史のある小さな村です。しかし目の前の海とわずかな畑しかない厳しい土地で、漁業が衰退してからは出稼ぎが主な収入源だったので、過疎化が今も進んでいます。

出稼ぎは明治の後半から始まって、男は大工や左官などの職人として会津や関東へ行き、漁師として北海道から樺太まで出かけました。女は主に『毒消どくけし』という伝統薬の売り子として、会津や関東各地を行商して歩きました。そして出稼ぎ先で成功を納めても、うまくいかなくても、戻って来るのはわずかな人だけでした。故郷には空家と、たまに親戚がお参りしてくれる先祖の墓だけが残されたのです。

時代がよくなって、墓を移住先に移した方や、五ケ浜から妙光寺の墓地に改めて立て直した方もあり、いずれもお寺との縁はつながっています。しかし一方で、連絡が途絶えて久しい方も多く、時々「先祖を知りたい」と県外から子孫の方が訪ねて来ることがあります。

墓地の整備

妙光寺の山側の墓地の一角は、低地で春先や梅雨時には水が溜まります。ここを整備して、以前から要望の多い檀徒向けの安穏廟を作ろうと計画中です。跡継ぎのいない檀徒さんの墓をここに集めて、将来は永代供養にすれば安心できるという趣旨です。

この場所に現在残っているのは、既に跡継ぎが絶えて放置された数基の墓だけです。これらを合同供養することを、それぞれ遠縁の親族からご承諾いただきました。残る明治5年五ケ浜≠ニ書かれた1軒分3基の墓だけ連絡が取れていません。以前、親戚という方から、直系の子孫が北海道にいて昔は旅館を営んでいたと、住所と電話番号を教えていただいていました。ところが、その親戚の方も先頃亡くなり、いよいよ北海道に電話をすることにしました。転居しているかもしれないし、「そんな昔のことは知らない」と言われても無理からぬ話です。電話の返答は「この番号は現在使われていません」でした。

140年の空白

町役場ならと思いかけ直しました。事情を説明すると小さな町だけに旅館名だけですぐわかり、電話番号も教えてくれました。電話に出られたご主人とおぼしき男性は、お客さんの対応で忙しそうな気配でしたが、真剣に話を聞いてくれました。

ご主人曰く「その屋号は我が家の先祖に間違いありません。先祖の地は新潟県の五ケ浜と聞いていました。しかし私も若いころはそんな話に興味も関心も無く、それ以外のことは何も聞いていなかったのです。親が亡くなりこの年齢になってから気にかかって、先祖を分骨した墓があると聞いた身延山の宿坊(しゅくぼう)北の坊≠2度尋ねました。北の坊≠フご住職が不在でわからなかったのですが、その後ここで檀家になっている日蓮宗のお寺が、分骨した墓を見つけてきてくれました。

新潟には一度佐渡にお参りに行っただけです。先祖のそのまた先祖が島流しの日蓮聖人を警護した人で、何かありがたい印鑑をいただいたと、親から聞いた覚えがあったものですから。我が家にも古い書付が残っていますが、昔の字で読めないのです。

突然のお話で戸惑っていますが、妙光寺さんに先祖の墓があるのですね。客商売ですぐに時間を作るのは難しいけれど、何としてもお伺いしたいです。」

北海道のホオホーツク海沿いの小さな町、そこに住む子孫の方と繋がりました。おそらく先祖は漁師として北海道に行かれたのでしょう。以来140年の空白の期間にどんな歴史があったことか。子孫の感慨を想像しながら、寺の役割の一端を改めて知った思いです。

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